新庄城(しんじょう)
 別称  : 沼田城、鵜沼城
 分類  : 平城
 築城者: 日野有祐か
 遺構  : 石垣、堀、土塁
 交通  : JR奥羽本線新庄駅徒歩15分


       <沿革>
           天正八年(1580)ごろ、土豪の日野有祐が築いたのがはじまりと伝えられるが、前史に
          ついては詳らかでない。当初は鵜沼城と呼ばれていたといわれる。最上義光が進出する
          と、日野氏もその傘下に入った。その後も最上四十八館の1つとして日野将監が在城した
          とされるが、最上家が元和八年(1622)に改易となると、いったん廃城となった。
           最上郡には、常陸松岡藩主戸沢政盛が2万石加増の6万石で入部した。政盛ははじめ
          真室城を居城としたが、寛永元年(1624)に新庄城の改修・移転を図った。このときまで
          に、城名が新庄城に改められたことになるが、その経緯や正確な時期は明らかでない。
          普請は翌二年(1625)に完了し、新庄藩の府城となった。新庄城には3層の天守があった
          が、同十三年(1636)に火災で焼失し、以後再建されることはなかった。
           新庄藩は一度の転封もなく、戸沢家が11代を数えて明治維新を迎えた。慶応四年(18
          68年)の戊辰戦争に際し、新庄藩は奥羽越列藩同盟に加わっていたものの、久保田藩に
          引き続いて新政府側に転じた。これを受けて、庄内藩が新庄へ攻め入り、攻防戦の末に
          新庄城は落城した。戦後、藩主戸沢正実は新政府から1万5千石を加増されたが、新庄城
          が修復されることはなかった。


       <手記>
           新庄城は、指首野川の沖積地上に築かれた輪郭式の平城です。本丸の周囲を二の丸
          が取り巻いていますが、それとは別に、本丸の南に飛び出す形でフック状の「二の丸屋敷」
          が付属しているのが縄張り上の大きな特徴です。しかし、この面白い曲輪は失われており、
          残っているのは本丸と周囲の堀の範囲のみとなっています。
           本丸には戸沢神社や護国神社がありますが、両社とも明治の創建で、より重要といえる
          のは、南西隅の土塁上に鎮座する天満神社です。こちらは戸沢家の氏神で、寛永五年
          (1628)に現在地に遷されており、いわば遺構の一部といえます。
           また、本丸東辺の表御門跡には石垣が残り、北西隅と北東隅にはそれぞれ大納戸櫓と
          武器櫓の跡がみられます。当時はすべての堀が水濠だったようですが、現在西辺の堀跡
          には水がありません。
           それ以外の三方の水濠は幅も広く穏やかで、堀端には釣り人が腰を下ろしていました。
          なかには若者も交じっていたりして、地域の憩いの場として親しまれている長閑なようすが
          うかがえます。

           
 本丸南東隅を望む。
本丸表御門跡を望む。 
 表御門跡の石垣。
本丸南西隅の天満神社。 
藩主戸沢家の氏神。 
 本丸北の裏御門跡。
本丸北西隅の大納戸櫓跡。 
 本丸北東隅の武器櫓跡を望む。
本丸西辺の堀跡。 
当時はこちらも水濠でした。 
 堀端の太公望たち。


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