ドーバー城
(Dover Castle)
 別称  : ドーヴァー城
 分類  : 山城
 築城者: ノルマンディー公ギヨーム(ウィリアム1世)
 交通  : ドーバー・プライオリー駅徒歩25分
 地図  :(Google マップ


       <沿革>
           ドーバーはローマ時代からイングランドへ渡る重要な港として発展していた。城跡に
          残る灯台跡は、紀元後50年には建てられていたとされる。その隣の聖メアリー教会と
          ともに、ドーバー城が築かれる以前から存在する貴重な建造物である。
           1066年、イングランドのエドワード懺悔王が没すると、義兄のハロルド2世が王位を
          継いだが、エドワードの叔父の孫(いとこちがい)にあたるフランスのノルマンディー公
          ギヨームも王位継承権を主張した。ギヨームは軍を率いてイングランドに上陸すると、
          ドーバー、ヘイスティングズペヴンジーの3ヶ所に築城するよう命じた。同年のヘイス
          ティングズの戦いに勝利してギヨームがイングランド王ウィリアム1世として即位すると、
          ドーバーは王に軍船と船員を提供する代わりに海運上の特権を与えられる五港同盟
          (シンク・ポーツ)の筆頭格として、重要な地位を占めた。
           当初のドーバー城はモット・アンド・ベイリーといういわゆる掻き上げの城であったが、
          12世紀のヘンリー2世による拡張以降、漸次的に石造の要塞へと改修されていった。
           1215年、ジョン王に対しイングランド諸侯が反乱を起こして第一次バロン戦争が勃発
          すると、造反諸侯に擁立されたフランス王太子ルイ(後のフランス王ルイ8世)がケント
          に上陸した。ルイ軍はまたたく間にケントの大部分やロンドン、ウィンチェスターといった
          主要都市を占領し、7月にはドーバー城を囲んだ。ルイは峰続きの北門に攻撃を集中
          させたが、城を預かるケント伯ヒューバート・ド・バラ以下城兵の抵抗は激しく、3ヶ月の
          包囲戦を耐え抜いた。イングランド領内での戦争継続が困難になったルイは、1217年
          はじめにパリへ帰還したが、5月にはサンドウィッチに上陸して再びドーバー城を包囲
          した。しかし、同月の第二次リンカーンの戦いでの敗北もあり、城攻めはまたも失敗に
          終わった。
           16世紀のヘンリー8世のころになると、銃火器の登場により城砦のあり方が変わり、
          ドーバー城も堀の拡充や城壁の強化などの改修を受けた。普請にはヘンリー8世自身
          も視察に訪れたとされる。イングランド内戦中の1642年、王党派であったドーバー城は
          謀略により議会派に乗っ取られた。ただし、どのような計略であったかは詳らかでない。
           1803年に始まるナポレオン戦争によりフランス侵攻の懸念が高まると、イングランド
          南東沿岸の城塞が強化された。ドーバー城も技術者兼陸軍将校のウィリアム・トゥイス
          のもとで大幅に改築され、多数の堡塁や支要塞群、地下トンネル網などが整備された。
          とくに地下トンネルは、第二次世界大戦において軍司令部や野戦病院となった。
           第二次世界大戦初期の1940年に発生したダンケルク撤退戦の別名「ダイナモ作戦」
          は、海軍中将バートラム・ラムゼイがドーバー城地下の発電機室でチャーチル首相への
          説明を行ったことにちなんでいる。

       <手記>
           ドーバー海峡の名前の由来にもなっていることから、日本でも比較的有名な港町です。
          とはいえドーバーの街自体は狭隘な谷間にあってあまり発展性がなく、ヨーロッパ大陸
          とイングランドの最短距離という地理的条件がなければ、これほど重要視されることは
          なかったと思われます。
           そんなドーバーの街と海に臨んで突き出た峰の先に、ドーバー城がそびえています。
          城内に広い駐車場を造れるほど規模が大きく、先史時代から近世の地下トンネルまで
          と見どころも多岐にわたっているのが特徴です。すべてをしっかり見学したら、半日以上
          はかかるでしょう。
           城は南北2つの丘を中心とし、その周りを二重三重の空堀で囲った堅固なものです。
          南の丘にはローマ時代に建てられたという灯台跡と、その脇の築城以前には存在した
          という聖メアリー教会(正確には聖メアリー城内教会)があります。丘の周囲には低い
          城壁が巡っていて、ウィリアム1世のノルマン・コンクエスト期の面影を残す遺構と思わ
          れます。最初期のドーバー城はこの丘(モット)を堀と塁で囲んだ上述のモット・アンド・
          ベイリー様式で、ヘンリー2世の時代以降にひとつ北の丘へ中心が移っていったという
          ことのようです。
           主郭にあたる北側のモット内部は有料ですが、こちらの旧城や外周の空堀脇などを
          歩く分には無料です。またダイナモ作戦の指令室は無料ですが、地下病棟跡は有料
          です。
           とくに圧巻なのは西辺の堀で、谷のように深い横堀が二重になっています。どんなに
          新しくてもナポレオン戦争時の改修までの遺構と思われ、中世城郭ファンにとっては
          大きな見どころです。私が訪れた時には、堀の間の土塁上を羊の群れが歩いていて、
          牧歌的な雰囲気も味わえました。
           また、裏手に回った北門も豪壮で見応えがあります。おそらくバロン戦争時に弱点と
          されたことで堅牢に改修されたのでしょう。日本でいうところの出桝形状の石造の楼門
          で、外観上は取り付く島もない感じです。
           主郭の中央には主塔(キープ)があり、内部は迷ってしまうほどたくさんの部屋があり
          ます。屋上はもちろん眺望に優れ、この日は曇りでしたが、海の向こうにフランス大陸
          と思われるラインがうっすら見えました。港にはひっきりなしに大型の船が出入りして、
          今なお重要な港湾都市であることがうかがえます。
           主郭を囲む外套城壁の下には地下通路があります。この通路は堀が一部畝ないし
          土橋になっている部分に通じてします。ここには大砲口や銃眼が開いていて、堀底へ
          降りてきた敵兵を銃撃できるようになっています。日本の近世城郭にはない防御施設
          なのでとても面白く感じました。
           ちなみに、1994年にドーバー海峡を渡るユーロトンネルが開通したので、フランス側
          から鉄道でドーバーに行けるように見えるかもしれません。ですが、フランスのカレー・
          フレタン駅を出たユーロスターがトンネルを渡って最初に停車するイギリス側の駅は、
          アシュフォード・インターナショナル駅です。ドーバーからはかなり内陸に入ったところ
          なので、鉄道での訪城を考えている方は注意してください。


 灯台跡と聖メアリー教会。
灯台跡越しに主郭のキープを望む。 
 古城外周の城壁跡。
古城脇の城門。 
 西辺の空堀。
同上。 
 同上。
西辺にある13世紀建造のハースト塔。 
 北門。
北門の空堀。 
堀底奥に見えるのは畝状射撃陣地。 
 主郭の外套城壁。
主郭城門越しにキープを望む。 
 堀底の畝状射撃陣地内部。
キープ屋上から古城・海側方面を望む。 
 同じくドーバー市街を望む。
 向こう側の丘にも要塞跡が残っています。
ダイナモ作戦指令室のある近代の建物。 


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