ペヴンジー城
(Pevensey Castle)
 別称  : ペヴェンジー城、ペベンシー城、アンデリトゥム、アンデリダ
 分類  : 平城
 築城者: ローマ帝国
 交通  : ペヴンジー・ベイ駅徒歩15分
 地図  :(Google マップ


       <沿革>
           ローマ時代後期の3世紀末に、ローマ帝国によってペヴンジー城の前身となる砦が建造された。
          この砦は、ローマ帝国の官職要覧『ノティティア・ディグニタートゥム』に「アンデリダ(Anderida)」
          ないし「アンデリトゥム(Anderitum)」の名称で記され、イングランド南岸(Saxon Shore)にある
          9つの城砦の1つであった。286年、英仏海峡を拠点とする艦隊の将軍カラウシウスがローマ帝国
          に反旗を翻し、ブリトンと北ガリアの皇帝を自称した。カラウシウスは293年に会計官のアレクトゥスに
          暗殺され、そのアレクトゥスも296年にローマの追討軍に敗れて殺害された。アンデリトゥムの城壁の
          基部で2人の肖像が彫られた硬貨が発掘されていることから、砦はこの反乱をきっかけとした築かれ
          たものと推測されている。
           5世紀に入ると、ローマ兵らは砦から引き上げ、城内には集落ができていった。『アングロサクソン
          年代記』には、491年に砦がサクソン人に包囲され、住民が虐殺されたとある。この事件を最後に、
          アンデリトゥムの事績は史料から姿を消し、砦はいったん廃墟と化したと考えられている。
           1066年9月28日、エドワード懺悔王亡き後のイングランド王位継承権を主張するフランスのノルマン
          ディー公ギヨームが、兵を率いてペヴンジーに上陸した。ギヨームはペヴンジー、ヘイスティングズ
          ドーバーの3か所に築城するよう命じ、ペヴンジーについてはローマ時代のアンデリトゥムの廃墟を
          取り立てて修復した。ギヨーム軍はまもなくヘイスティングズへと転進し、有名なヘイスティングズの
          戦いでイングランド王ハロルド2世を敗死させた。ノルマン・コンクエストを達成しウィリアム1世として
          即位したギヨームは、1067年にペヴンジーを出港してノルマンディーへ凱旋した。サセックスおよび
          ケントの土地はノルマン・コンクエストの功臣たちに分け与えられ、ペヴンジーにはウィリアム1世の
          異父弟モーテン伯ロバートが封じられた。
           1087年にウィリアム1世が没すると、次男のウィリアム2世(赤顔王)がロンドンで王位を継いだ。
          長男のノルマンディー公ロベール2世(短袴公)がこれに異を唱えると、ロバートとその兄のバイユー
          司教オドはロベール2世を支援した。父王のときと同じく、ペヴンジーがロベール2世のイングランド
          上陸の橋頭堡となることを恐れたウィリアム2世は、自ら軍を率いてペヴンジー城を海陸の両面から
          包囲した。力攻めで落ちることはなかったが、6週間の攻防戦の後に、城方は兵糧が尽きたために
          降伏した。ロバートはウィリアム2世に赦されてそのままペヴンジー城主にとどまったが、ロバートの
          子のウィリアムが、ウィリアム2世の跡を継いだ弟のヘンリー1世(碩学王)に背いたため、モーテン
          伯家は除封された。
           城はギルバート・ド・レーグルに与えられたが、1101年にロベール2世が再びイングランド上陸の
          気配を見せると、ヘンリー1世はペヴンジー城に入って守りを固め、城も国王の直轄となった。結局、
          ペヴンジー城が攻められることはなく、逆にヘンリー1世が1106年にノルマンディーへと攻め入り、
          ロベール2世を捕えてカーディフ城に幽閉した。
           ヘンリー1世の甥スティーブン王の代になると、ペヴンジー城の所有権はド・レーグル家からペン
          ブローク伯ギルバート・ド・クレアに移った。スティーブン王の治世は、ヘンリー1世の実子マティルダ
          (モード)と王位を争う内戦の時代であったが、スティーブン派であったギルバートは1147年に離反
          した。ペヴンジー城はスティーブン王に包囲され、またしても兵糧攻めによって陥落した。遅くとも
          1130年の記述に、ペヴンジー城に中心的な塔があったことがみられるが、1190年代に入り石造の
          キープ(主塔)がリチャード1世(獅子心王)によって建造されたと考えられている。
           リチャード1世の跡を継いだ弟のジョン王の代に、多くのイングランド諸侯が反旗を翻して第一次
          バロン戦争が勃発した。造反貴族に支持されたフランス王太子ルイがイングランド上陸を目論むと、
          拠点化されることを恐れたジョン王はペヴンジー城の破城を命じた。
           1246年、ペヴンジー城はサヴォイ伯ピエトロ2世に与えられ、木製のままだった城壁や塔が石造に
          改められた。1264年には、レスター伯シモン・ド・モンフォールらが挙兵して第二次バロン戦争が勃発
          した。5月のルイスの戦いで、イングランド王ヘンリー3世は自らが捕虜となるほどの大敗を喫した。
          王党派の敗残兵がペヴンジー城に逃げ込み、ド・モンフォールらは降伏を呼びかけたものの、拒否
          されたため包囲戦となった。攻城軍は城の周囲を掘り込んで陸から断絶し、兵糧攻めに持ち込もうと
          図った。しかし海を封鎖できなかったことから、籠城方は12月になって海路周辺地域の襲撃に出て、
          武器糧秣を調達することができた。翌1265年になっても膠着状態が続いたが、同年7月に城南面の
          ローマ時代の城壁が倒壊したことで勝敗は決した。翌月のイヴシャムの戦いで、ド・モンフォールが
          戦死して第二次バロン戦争が事実上の終結をみると、ペヴンジー城はピエトロ2世に返還された。
          ピエトロ2世が1268年に死去すると、その姪でヘンリー3世の妃であるエリナー・オブ・プロヴァンスが
          城を相続し、その後にはイングランド王家の財産となった。
           だが、潮風に晒された城壁は徐々に朽ちていき、城は廃墟となっていった。加えて、14世紀には
          管財人が城の建材を勝手に売却したり、不審火が相次いだりしたため、さらに廃墟化が進行した。
          この時期にキープが部分的に解体および再建されたことが、発掘調査から明らかになっている。
           1372年、イングランド王エドワード3世の子ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントがペヴンジー城主
          となった。ジョンは、百年戦争におけるフランス軍の侵攻に備えるために、ペヴンジー城を駐屯地
          として提供することを拒否した。被害を受けた際に修復費用がかかることを厭ったためといわれる。
          彼の態度は国内の不興を招き、1381年に勃発した農民反乱「ワット・タイラーの乱(Peasants'
          Revolt)」の一因となったとされる。
           ジョンの長男ヘンリー・ボリングブルックは、対立していたイングランド王リチャード2世によって国外
          追放されていた。1399年にヘンリーがイングランドへ舞い戻ると、ペヴンジー城代を務めていたサー・
          ジョン・ペラムはヘンリーを支援した。ヘンリーがリチャード2世を破り、同年9月にヘンリー4世として
          イングランド王に即位すると、ジョン・ペラムはペヴンジー城を褒賞として与えられた。15世紀中には
          王族が足を運ぶこともあったが、16世紀に入ると再び顧みられなくなり、廃墟となっていった。1588年
          のアルマダ海戦では、スペイン無敵艦隊の砲撃に備えるため、城内の海側に土塁と砲台が建設され
          た。しかし、実際に攻撃されることはなく、その後も使われることはなかった。
           

       <手記>
           今日のペヴンジー城は海岸線から1kmほど内陸に入った小高い丘の上にありますが、中世までは
          海に突き出た細長い岬を利用した城だったそうです。現在のメインゲートと城下町は東側にあります
          が、かつてはこちらは海で、大手は唯一陸続きの西側に開いていました。
           もともとは岬の付け根を堀切で断絶し、周りを城壁で囲んだゾウリムシ状の単郭の城だったようです
          が、ノルマン・コンクエスト期以降に南東隅に主郭を新設し複郭になりました。どちらの曲輪の城壁も
          朽ちた感じで残っていて、日本から見ればとても良好な保存状態に思えます。広大な城域と立派な
          遺構が見られるペヴンジー城ですが、さらに素晴らしいことには、なにかと暴利なイングリッシュ・ヘリ
          テージに登録されているにも関わらず、ここに限ってはなんと入城無料です。イギリスでこんなに広く
          整備された城跡を、これほど気持ちよく見学できたのは初めてでした(笑)。
           惣郭の外套城壁には一部内側から掘り込んだ箇所があり、ここには発掘調査によって見つかった
          ローマ時代の城壁が見学者用に露出させてあります。ほかにもアルマダ海戦時の砲台土塁が南辺
          に保存されています。南辺だけ城壁がないので、おそらくこちらは16世紀の時点で海蝕によって地形
          ごと削られていたのでしょう。
           規模・構造・遺構の残存状況・整備状況および見学費用と、どれをとっても英国でとりわけ中世城郭
          ファンにおすすめできる城跡の1つといえるでしょう。また、イギリス国内で近世まで一応存続していた
          城のなかでは、最も古い歴史をもつものの1つと思われ、史跡としても貴重な存在であるといえます。
           ちなみに日本語では「ペベンシー城」という表記がよく見られますが、現地で私が耳にした限りでは、
          「ペヴンジー」が一番近いと思われます。

 惣郭内から主郭を望む。
主郭内のようす:その1。 
 その2。
その3。 
 主郭の城壁と堀。
惣郭内部のようす。 
道の奥の開口部はかつての大手口。 
 アルマダ海戦時に造られた土塁。
大手口脇の城壁。 
 ローマ時代の城壁。
惣郭北辺の城壁。 
 崩れかけた城塔。
現在のメインゲート付近のようす。 
 外套城壁を外側から。


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