ヘイスティングズ城
(Hastings Castle)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: ノルマンディー公ギヨーム(ウィリアム1世)
 交通  : ヘイスティングズ駅徒歩25分
 地図  :(Google マップ


       <沿革>
           1066年、エドワード懺悔王死後のイングランド王の地位を求めてイギリスに上陸した
          ノルマンディー公ギヨームは、ヘイスティングズとペヴンジー、およびドーバーの3か所に
          築城を命じた。この時のヘイスティングズ城は、日本でいうところの掻き上げの城に近い
          モット・アンド・ベイリー様式で短期間で築かれた。
           同年10月14日、ヘイスティングズからロンドンに向かう途上にあるバトルの丘で、史上
          名高いヘイスティングズの戦いが勃発した。この戦いでエドワード懺悔王の義兄ハロルド
          2世を敗死させたギヨームは、ウィリアム1世としてイングランド王に即位した(ノルマン・
          コンクエスト)。
           1070年、ウィリアム1世はヘイスティングズ城を石造に改修するように命じた。まもなく
          ノルマンディー公の庶子家とされるウー伯のロベールがヘイスティングズの領主に任じ
          られ、ヘイスティングズ城主の地位も世襲となった。1215年に第一次バロン戦争が勃発
          すると、イングランド王ジョンはヘイスティングズ城がフランス王ルイ8世の手に落ちること
          を恐れて破却させた。しかしジョン王死後の1220年に、跡を襲ったヘンリー3世によって
          再建されている。
           1242年、ウー伯はフランスのノルマンディーにある本貫地ウーの経営に専念するため
          ヘイスティングズを放棄した。これを受けて、ヘンリー3世は叔父のサヴォイア伯ピエトロ
          2世にヘイスティングズ領を与えた。
           1287年、イングランド南岸は地形があちこちで大きく変わるほどの暴風雨に見舞われ、
          ヘイスティングズ城の一部も土台の崖ごと海に崩れ落ちた。城としての機能はほとんど
          失われ、城内の礼拝堂である聖母マリア教会を残すのみとなった。1546年には、英国
          国教会を立ち上げたヘンリー8世によって聖母マリア教会も没収され、旧城内は完全な
          廃墟となった。
           1591年、地元選出のイングランド議会議員トマス・ペラム準男爵がヘイスティングズ
          城跡の土地を購入した。1824年に発掘が行われたものの、1951年にヘイスティングズ・
          コーポレーションが購入するまで、城跡はペラム家の農場として利用されていた。

       <手記>
           ヘイスティングズの戦いといえば、英国史上最も有名かつ世界史の授業でもおなじみ
          の合戦の1つです。とはいえ、実際の戦闘が行われたのはヘイスティングズ市街周辺
          ではなく、北西へ10kmほど行ったバトルの丘と呼ばれるあたりです。バトルには大きな
          修道院が建っているものの、当時から今まで城砦が築かれていたということはないよう
          です。
           ヘイスティングズ城は、市街と海に臨んで突き出た舌状の峰先に築かれています。
          ノーマンコンクエスト期に好んで築かれたモット・アンド・ベイリーという、小丘の周囲を
          堀と塁で囲む形式に属しますが、既存の独立丘を利用するのではなく、堀を掘った際
          の残土を盛ってモットと成しています。これは同時期に築かれたペヴンジー、ドーバー
          の両城も同様で、この3城に共通しているのは大陸と繋がる港の確保という点です。
          独立丘が見つけやすい内陸のモット・アンド・ベイリーに対する、沿岸部の城の特徴と
          して、興味深いように思います。
           現在のヘイスティングズ城址は史跡公園となっています。有料ですが、ナショナル・
          トラストではないので大した金額ではありません。この日はフランス語の中高生ぐらい
          らしき修学旅行かなにかの集団が来ていました。偶然なのか定番なのか、フランス人
          のヘイスティングズ上陸を追体験することができました(笑)。
           Googleの航空写真などを見てもなんとなく分かるとおり、ヘイスティングズ城の南側
          は大きくえぐられています。キープ(主塔)はモットの上ではなく崩落した部分にあった
          そうです。建物の痕跡が残っているのは、モットとその脇の城壁、および聖母マリア
          教会跡です。また分かりにくいのですが、入城口とモットの間に地下兵営への入口が
          あります。
           モットの背後には立派な堀切があり、往時は木橋を渡していたと考えられています。
          訪城の際は堀底へ一旦下りる形となります。堀を挟んだ峰の付け根側は広い空間と
          なっていて、「レディース・パーラー(Lady's Parlour)」と呼ばれています。このレディー
          とは聖母マリアのことを指し、教会に付属する場所だったとみられています。19世紀の
          ナポレオン戦争に際して、海防のためにここに大砲が並べられていたとされています
          が、城自体が再建されたようすはみられません。
           ヘイスティングズ駅から城へ登るには、北麓を回るのが最短です。ですが、個人的
          には登りか下りの最低どちらかは、南東麓へ回ることをおすすめします。こちらの斜面
          には日本ではほとんど見られない形式の古いケーブルカーがあります。乗車時間は
          わずかですがとても趣があります。麓にはジョージ・ストリートという細い商店街の路地
          が伸びていて、こちらも歩いているだけで楽しめます。

 城内のようす。
 右手の旗が建っているのがモット。
城内のようすその2。 
 モットを見上げる
モットから城壁を眺める。 
 残存城壁のようす。
聖母マリア教会跡。 
 南辺のようす。
 かつては道路と建物のあたりまで城山でした。
地下兵営。 
 背後の堀切。
レディース・パーラーから城を望む。 
 城山へ登るケーブルカー。


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