ケーニヒシュタイン要塞
( Festung Königstein )
 別称  : ケーニヒシュタイン城
 分類  : 山城
 築城者: ヴァーツラフ1世か
 交通  : ケーニヒシュタイン駅より有料シャトルバス利用
 地図  :(Google マップ


       <沿革>
           プシェミスル朝のボヘミア王ヴァーツラフ1世を「シュタインの城伯ゲープハルト(Burggraf
          Gebhard vom Stein)」と記した1233年の文書があり、これがケーニヒシュタインの史料上の
          初出とされている。「ケーニヒシュタイン」の名が正式にみられるのは、1241年の『オーバー
          ラウジッツ境界文書(Oberlausitzer Grenzurkunde)』においてである。ただし、ケーニヒシュ
          タインの山上に城砦施設が築かれていたか否かは詳らかでない。
           遅くとも14世紀中ごろまでには存在していたようで、同世紀後半に入ると城は何度も抵当
          に入れられた。1385年にはじまるドーナ城伯家とマイセン城伯家の争いである「ドーナの乱
          (Dohnaische Fehde)」に際して、乱の首謀者であるイェシュケ・フォン・ドーナが神聖ローマ
          皇帝でもあったボヘミア王ヴェンツェルから、抵当のカタとしてケーニヒシュタイン城主に任じ
          られていた。1402年、追いつめられたイェシュケはケーニヒシュタイン城に逃れるが、翌年
          皇帝の命によって捕縛され、現在のブダペストに送られて斬首された(異説有り)。その後
          城は、1408年にマイセン辺境伯フリードリヒ1世(好戦公)が獲得した。1459年のエーガー
          条約によってボヘミアとザクセンの境界が正式に決定され、城も正式にザクセン(マイセン
          辺境伯はザクセン選帝侯に併合され消滅)のものとなった。
           1563年には、フライベルクの技師マルティン・プラーナーの指揮のもとで152,5mの深井戸
          が城内に掘削された。この深井戸は、今日までザクセン州最深の井戸として知られている。
          1589~94年にかけて、ザクセン選帝侯クリスティアン1世の命によって城は要塞化された。
          その後も断続的に要塞の強化工事が勧められたが、その堅固さの故か18世紀に入るまで
          攻められることもなかった。他方で要塞は監獄としても使用され、1591年には宰相であった
          ニコラウス・クレルが投獄された。マイセン白磁の祖であるヨハン・フリードリヒ・ベトガーも、
          ここに幽閉されたことがある。
           1728年にはプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世とフリードリヒ(後のフリードリヒ2世)
          父子が要塞を訪れている。皮肉なことにケーニヒシュタイン要塞における最大で最後の戦い
          は、このフリードリヒ2世(大王)によってもたらされた。1756年にはじまる七年戦争において、
          オーストリアに対するの予防戦争を仕掛けたプロイセン軍は、まずボヘミアへのルート上に
          あり、オーストリアと近しいザクセンへ侵攻した。選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世は首都
          ドレスデンを放棄して、ケーニヒシュタインに入った。ザクセン軍は、ケーニヒシュタインから
          ピルナへと至る陣城網を構築し、今日ザクセンのスイスと呼ばれるエルベ川峡谷の天険を
          楯に籠城戦の構えをみせ、一方でプロイセンと交渉をもちつつ、オーストリアからの救援を
          待った。
           フリードリヒ大王はケーニヒシュタインを力攻めするようなことはせず、包囲網を敷いて兵糧
          攻めの策をとった。食糧はまもなく窮乏し、頼みの綱のオーストリア軍もロボジッツの戦いで
          プロイセン軍に敗れたたため、約1ヵ月におよぶ籠城の末ザクセン軍は降伏した。結局この
          戦いでもケーニヒシュタイン自体はほぼ無傷であった。降伏条約によりケーニヒシュタインは
          中立地帯とされ、アウグスト2世はポーランド王を兼ねていたことによりワルシャワの宮廷へ
          と去った。
           1806年、ナポレオンの圧力によりライン同盟が結成されると、ザクセンは王国となったもの
          の、要塞は王国ではなく同盟に所属するものとなった。1813年にはナポレオン自身が要塞
          を巡察している。1815年のウィーン会議の結果、ケーニヒシュタイン要塞はザクセン王国に
          残った唯一の要塞となった。
           1848年、煙突掃除夫のゼバスティアン・アブラツキがケーニヒシュタインの崖を1人で登り
          きるという「事件」が起きた。彼は、ケーニヒシュタイン要塞を「制圧」した唯一の人物として
          語り草となっている。その後も、大方は戦争捕虜収容所としてであったが、第二次世界大戦
          まで現役の要塞であり続けた。

       <手記>
           ケーニヒシュタイン要塞は、ザクセンのスイスと謳われるエルベ川峡谷のなかでももっとも
          岩肌が険しく屹立する、テーブル状の岩山の1つに築かれています。表題の写真はケーニヒ
          シュタインの駅前から撮ったものですが、すでにその山容のほどはお分かりいただけるもの
          と思います。駅は要塞の東にありますが、要塞の西側はやや緩やかな地続きとなっていて、
          ここにビジターセンターがあり、そこまで駅から有料のシャトルバスが出ています。また要塞
          の上までへは城壁の内部にエレベーターがあるので、見た目の山の険しさに比して訪城は
          容易といえます。
           ケーニヒシュタインはひとことで言うなら「天空の要塞」で、鉛直に連なる城壁とその上から
          の眺望が何よりの見どころといえるでしょう。要塞の西半分ほどに建物が集中していて、東
          半分ほどは鬱蒼とした林となっています。おそらくは、一般兵の野営用のスペースだったの
          でしょう。公開されている建物はあまり多くないのですが、そのなかでも見るべきは城内最古
          の建築である礼拝堂と、地下が貯蔵庫となっている館、そしてザクセン州最深といわれる
          深井戸でしょう。この貯蔵庫には、かつてプファルツ選帝侯と建樽競争を行ったとされる大樽
          がありました(プファルツ側の樽はハイデルベルク城に現存しています。)
           個人的に興味深いと感じたのが、エルベ川に面した北辺にひっそりと立っている、鉛筆の
          ように細い「空腹の塔(Hungerturm)」です。塔の名は、この塔がしばしば監獄として利用
          されていたからと考えられていますが、塔自体は監獄として利用される以前に建てられた
          古いもののようです。この塔の不思議なのは、崖とその上の城壁の外側、すなわち要塞の
          外側に立っているという点です。説明板によれば監視用として築かれたものではないかと
          していますが、だとすれば普通に城壁の上に建てられるべきであり、地階が崖下にあると
          いうのは不自然です。そもそも塔の最上階が城壁の高さとあまり変わらないというのでは、
          物見の役を果たしていません。私の考えでは、この塔はエルベ川方面へと下りる搦手の
          ようなもので、もっといえば緊急時の脱出用の塔だったのではないかと推測されます。まぁ、
          空のとても広いこの要塞の上で、このような細く小さい塔がここまで気になる観光客という
          のもそうそういないでしょうが(笑)。
 
  
 西辺の大手口と稜堡、館。
要塞からドレスデン方面を望む。 
 稜堡越しにエルベ川峡谷を望む。
 稜堡の上には模擬大砲が並んでいます。
要塞内の堀と最古の建物である礼拝堂。 
 天空の城壁その1。
天空の城壁その2。 
 空腹の塔。
ケーニヒシュタイン駅側の眺望。 


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