戌山城(いぬやま)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 斯波義種
 遺構  : 曲輪、堀、土塁
 交通  : JR越美北線越前大野駅からバスに乗り、
      「犬山」下車徒歩20分


       <沿革>
           14世紀後半に、斯波義将の弟義種によって築かれたとされる。義種は越前守護の義将
          から大野郡を任され、大野斯波家を興した。義種は室町幕府から加賀守護に任命された
          が、子の満種は将軍足利義持の勘気を蒙って守護職を剥奪された。しかし、大野斯波家
          は宗家である斯波武衛家の有力分家として発言力を維持し、満種の嫡孫にあたる義敏は
          武衛家の養嗣子となった。
           義敏は、同じく武衛家の養子に迎えられた渋川義鏡の義廉と家督を巡って争い、応仁の
          乱の遠因となった。大野斯波家は義敏の弟の義孝が継いだが、乱を通じて朝倉孝景(7代
          英林)が勢力を拡大し、大野郡も朝倉氏に横領された。孝景の弟光玖が大野郡司に任じ
          られ、戌山城もそのまま朝倉氏の城となったとみられる。
           光玖没後の大野郡司についてはしばらく詳細不明となるが、1520年代には9代朝倉貞景
          の次男景高が就任した。しかし、景高は兄孝景(10代宗淳)と対立して天文九年(1540)に
          出奔し、景高の子景鏡が郡司を継いだ。景高・景鏡父子は平地の亥山城を居城としていた
          とされるが、戌山城も詰城として機能していたとみられている。
           天正元年(1573)、織田信長に攻め込まれた朝倉義景が一乗谷を放棄すると、景鏡は
          義景を庇護したものの、裏切って自害に追いこんだ。信長に降伏した景鏡は大野郡を安堵
          され土橋信鏡と改名したものの、翌二年(1574)に越前一向一揆との戦いで命を落とした。
          一揆は翌三年(1575)に鎮圧され、大野郡の3分の2は織田家臣金森長近に与えられた。
          この間、戌山城で戦闘があったかは定かでない。
           長近はまず戌山城に入ったが、翌天正四年(1576)にすぐ近くの亀山に築城を開始した。
          数年後かけて亀山に大野城が完成すると、戌山城は廃城となった。


       <手記>
           戌山城といえば、大野城が築かれるまで大野郡の中心的な城だったわけですが、現在
          では雲海に浮かぶ大野城の撮影スポットとしての知名度の方が高くなってしまったように
          思われます。大野市のサイトを見ると、撮影スポットへは南東麓の鍬掛ルートを掲示して
          いますが、普通に城跡が目的であれば北西麓から登るのがよいでしょう。ここには説明板
          や数台分の駐車スペースのほかに、城兵が1日3回水を汲みに降りたとする伝承にちなむ
          「みくら清水」があります。
           戌山城は、山頂の主城域を中心に、北西尾根と南方の次峰に曲輪群を従えています。
          また、北東の尾根筋にも堀切や曲輪が残っています。北西麓からのルートは北西尾根の
          曲輪群を抜けて主城域に至りますが、途中にはいくつもの堀切が穿たれています。なか
          でも、北西尾根で最も高いピーク背後の堀切は規模が大きく、また東側側面から竪堀状
          に折れて落ちていく、複雑な構造をしています。
           また、北西の曲輪群や主城域で大きな見どころとなっているのが、畝状竪堀群です。
          こちらも規模が大きく本数もかなりあり、最も分かりやすく見ごたえがあるのは主郭北面の
          ものですが、それ以外でも注意深く斜面を眺めれば、そこかしこに畝堀と思われる地形が
          散見されます。
           主郭のは前後に腰曲輪が付属し、南側腰曲輪の背後は2条の堀切で断絶されています。
          その先はしばらく尾根筋を進み、小規模な2条堀切を経て南の曲輪群に致します。こちらは
          先述の撮影スポットになっていて、眺めよく木が整理されいます。南曲輪群は竪堀がほぼ
          見られない代わりに、頂上の曲輪の下に横堀が設けられています。
           戌山城は、畝状竪堀群の存在からみて朝倉氏時代末期の改修を受けていることは確実
          でしょう。ベストとはいわないまでも、「天空の城」の観光化のおかげで城内は歩きやすく
          整備されています。「天空の城」の余波で下手な方向に荒らされてしまうよりは、このまま
          の姿で残っていてくれればいいのかな、と感じました。

           
 北西麓の登山口脇にあるみくら清水。
北西尾根の曲輪。 
 北西尾根の堀切。
北西尾根で最も規模の大きい堀切。 
 その堀切から直角に折れて、
 竪堀に落ちるところ。
北西尾根の曲輪の畝状竪堀。 
 北西尾根筋の土橋。
主城域北西尾根側の堀切。 
 主城域北西側腰曲輪と、奥に主郭土塁。
主郭のようす。 
 主郭の土塁。
主郭北側斜面の畝状竪堀。 
 主郭南側の腰曲輪。
その付け根の竪堀。 
 主城域南側の堀切。
同上。 
 南側尾根筋の堀切。
同上。 
 南曲輪群の曲輪跡。
 今は天空の城の展望台。
展望台から大野城を望む。 
 同上。
南曲輪群の頂上の曲輪。 
 曲輪内のようす。
その下の横堀。 
 同上。


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