大野城(おおの) | |
別称 : 越前大野城、亀山城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 金森長近 | |
遺構 : 石垣、堀 | |
交通 : JR越美北線越前大野駅徒歩20分 | |
<沿革> 天正三年(1575)、越前国を一向一揆が席巻すると、織田信長は討伐軍を差し 向けた。同年中に一揆が鎮圧されると、大野郡攻略に功のあった金森長近が、 郡内3分の2にあたる3万石を与えられた。長近はまず、一向一揆に殺害された 旧大野郡司土橋信鏡(朝倉景鏡)の居城戌山城に入ったが、翌四年(1576)に すぐ近くの亀山に築城を開始した。数年の後に完成した城は、(越前)大野城と 呼ばれるようになった。 天正十三年(1585)、長近は飛騨平定の功により同国へ加増・転封となり、 時期は定かでないが青木一矩が大野城主となった。文禄元年(1592)、一矩は 越前府中城へ移封となり、代わって織田信長の次男信雄の長男秀雄が5万石 で大野城主となった。 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、秀雄は西軍に属したため改易された。 代わって徳川家康の次男結城秀康が越前一国に封じられ、同七年(1602)に 結城家家臣土屋正明が大野城に入った。同十二年(1607)に秀康が没すると 正明は後を追って殉死し、その子忠次が跡を継いだ。しかし、忠次は同十四年 (1609)に禄を除かれ、小栗正高が大野城を預かった。 元和九年(1623)、秀康の嫡男で2代藩主の松平忠直は乱行を理由に幕府 から隠居を命じられ、福井藩はいったん幕府に収公される形で、忠直の次弟 忠昌に相続された。このとき、福井藩領から数藩が分離し、秀康三男の松平 直政が5万石で(越前)大野藩を立藩した。 寛永十二年(1635)、直政は松本7万石へ加増・転封となり、直政の弟直基 が隣領勝山から移封となった。正保元年(1644)には直基も山形15万石へと 加増され、やはり勝山藩主となっていた直政・直基の弟直良が5万石で大野 藩主にスライドした。 直良の子直明は天和二年(1682)に明石藩6万石へ転封となり、代わって 土井利房が4万石で大野藩に封じられた。利房は大老土井利勝の四男で、 自身も転封の前年まで老中を務めている。以後、土井家が8代を数えて明治 維新を迎えた。その間、安政四年(1775)の大火で天守を焼失し、再建される ことはなかった。 <手記> 近年流行りの「天空の城」の1つとして喧伝されていますが、他のそれらの 城と比べて比高が低いのが特徴です。赤根川を背にした緩やかな独立丘に 築かれていて、登るのも難しくありません。 山上には石垣が連なり、長近の築城技術のほどがうかがえます。ただし、 城内はきれいに公園化されていて、石垣のいくつかは当時のものではない ようにも見えます。 天守台には、2層4階の大天守とそれに付属する2層2階の小天守が模擬 再建されています。ただし、かつての大天守は2層3階だったとされ、小天守 が建っているところには「天狗の間」と呼ばれる書院櫓があったなど、史実に 則った復元ではないようです。最上階からは観光名所でもある「七間通り」を はじめ、城下町や大野盆地が一望できます。すぐ向かいに戌山城が見える のですが、時間の関係で登れなかったのは残念でした。 山麓の館跡は小学校となっていて、周囲の堀が一部残っています。また、 武家屋敷跡や城下の町割りも当時の雰囲気をよく伝えています。越前大野 は湧き水の多い街として知られ、城下のあちこちに天然の水汲み場があり ます。訪城の際はペットボトルやポリタンクなどの容器を用意しておくとよい でしょう。 |
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山麓居館跡から天守を見上げる。 | |
復興天守群のようす。 | |
小天守。 | |
天守曲輪の武者登りと呼ばれる石段。 | |
天守から城下を俯瞰。 | |
天守曲輪と武具蔵の間の堀切。 | |
模擬城門。 | |
本丸(天守曲輪下)のようす。 | |
戌山城跡の展望台から見た大野城。 |