朝倉氏館(あさくらし)
付 一乗谷朝倉氏遺跡
 別称  : 一乗谷館、朝倉館
 分類  : 平城
 築城者: 朝倉氏
 遺構  : 土塁、堀、石積み、虎口
 交通  : 福井駅よりバスに乗り、「朝倉館前」
       または「復元街並」下車


       <沿革>
           越前の戦国大名朝倉氏の本拠地として知られている。越前朝倉氏は、鎌倉幕府
          の滅亡時に但馬国養父郡朝倉庄を治めていた朝倉広景が足利尊氏に従い、越前
          守護斯波高経の下で戦功を挙げ、越前国内に所領を与えられて移り住んだことに
          始まる。朝倉氏は古代名族日下部氏の末裔とされるが、広景以前の系譜について
          は詳らかでない。
           越前朝倉氏の最初の居館は黒丸(福井市黒丸町)に置かれていたとされ、いつ
          ごろ一乗谷に移ったのかは定かでない。軍記物である『朝倉始末記』には、広景
          から数えて7代目の孝景(英林)が文明三年(1471)に移転したとあるが、現在では
          それ以前の15世紀前半ごろには、朝倉氏は一乗谷を根拠としていたと考えられて
          いる。ちなみに、朝倉氏が一乗谷を含む宇坂庄を所領として得たのは、広景の子
          高景の代の正平二十一年/貞治五年(1366)になってのことである。
           孝景は応仁元年(1467)に始まる応仁の乱において在京西軍の主力の一員と
          して活躍し、文明三年に東軍に寝返った後は越前国内を転戦した。『始末記』に
          おける一乗谷移転のくだりはこうした背景によるものだが、すでに一乗谷を本拠と
          していたうえで、応仁の乱を経て城砦化を推し進めた可能性は十分に考えられる。
           孝景の子氏景は、将軍足利義持の弟義嗣の子嗣俊の後裔ないし奥州斯波氏
          一族の鞍谷御所を傀儡として擁立し、朝倉氏の越前支配の基礎を固めた。氏景
          孫の孝景(宗淳)の頃になると、京の戦乱から逃れた貴族や文化人が一乗谷に
          身を寄せ、「北ノ京」と呼ばれるほどの繁栄を見せた。
           天正元年(1573)八月十三日、小谷城からの撤退中を織田信長軍に襲われた
          孝景の子義景は、刀根坂の戦いで多数の重臣を失うなど大損害を被り、ほうほう
          の体で一乗谷へ逃れた。十七日には織田勢が大軍を擁して越前に侵攻したが、
          義景の招集に応じる者はなく、数百人の供回りを連れて従兄弟の大野郡司朝倉
          景鏡を頼って落ち延びた。翌十八日には織田方の兵が一乗谷に到達し、市中に
          火を放たれ繁栄を極めた北ノ京はあっけなく灰燼に帰した。
           同月二十日には、景鏡の裏切りによって義景が自害に追い込まれ、戦国大名
          朝倉氏は滅亡した。戦後に越前を与えられた織田家臣柴田勝家は北ノ庄城
          築いて居城としたため、一乗谷の城館や町場は焼け落ちたまま打ち捨てられた。


       <手記>
           一乗谷は戦国期日本を代表する都市の1つであることから、その存在そのもの
          が既に価値の高い遺跡であるといえます。それに加え、あまりにも呆気なく地上
          の建造物が焼亡し、遺構もそのままの状態で埋もれていったため、奇しくも全国
          でも類を見ないほどの規模と質をもつ遺跡となっています。
           両側を深い山に挟まれた一乗谷川沿いの谷戸に延びる朝倉氏の城下町は、
          川の上流と下流両サイドの口を上城戸と下城戸で区切り、さながら大陸の城壁
          都市のような独立性を有しています。とはいえ町場は両城戸の外側にも広がって
          いたとされ、とくに一乗谷川と足羽川の合流点付近には河港が開かれ、日本海
          からの物資がここまで舟で運ばれていたそうです。
           朝倉氏の居館はやや上城戸側寄りに位置し、詰城のある一乗城山を背にした
          方形館です。入口の唐門が印象的かつ有名ですが、これは館の遺構ではなく、
          後に建立された松雲院の寺門です。
           館の内部は、発掘調査に基づき建物跡が地表復元されています。その奥、山
          の際には、国の特別史跡とは別に「一乗谷朝倉氏庭園」として特別名勝に指定
          されている4つの庭園跡の1つがあります。池の周囲に石を配した山水式のお庭
          で、完全に埋まっていたものを発掘整備したのだそうです。一乗谷にはほかにも、
          朝倉氏館の南の湯殿跡と、義景が側室小少将のために建てたとされる諏訪館跡、
          そして南陽寺跡の計4か所に名勝指定された庭園があります。現役の庭園なら
          いざ知らず、遺跡の庭園「跡」が名勝となるなど、国内でも珍しいのではないかと
          思われます。いずれも往時の姿ではないものの、石組みといい景色といい、名勝
          に指定されるだけの風格と優美さは充分に感じ取れます。
           観光名所としての一乗谷のメインは、朝倉氏館の対岸の復元街並みでしょう。
          こちらは有料ですが、なかなか直にお目にかかることのない戦国時代の街並み
          が見学できるとあって貴重です。
           復元街並みでは、春と秋の年に2度イベント期間があり、私が訪れた時は幸い
          にもちょうどその時期でした。普段は建物の中には人形が置かれているそうです
          が、期間中は地元の劇団などの方々が町人の衣装で通りを歩いていたり、お店
          で実際に商品を販売したりしています。運の悪いことに私の訪問時はしたたかに
          雨が降っていましたが、天気が悪くなければ道端でフラッシュモブのように役者の
          皆様による寸劇が始まるのだそうです。私も買い物と軽妙なやり取りを楽しんだり、
          室内劇を見せていただいたりと大いに楽しめました。
           復元街並みから下流側へ行くと、建物はないものの地表復元された町の区画
          が広がるエリアに出ます。眺めていると、井戸の数がやたら多いことに気が付き
          ました。後でボランティアガイドの方に会った際に聞いてみると、義景の命で各戸
          ごとの自前の井戸を掘ることが推奨されていたのだそうです。その政策の是非は
          ともかく、これだけ井戸を設けても水が涸れずにでるのだというところに、個人的に
          関心が向きました。
           ちなみに、下城戸寄りの城戸内にその名も「陣屋」という民宿があり、私はここに
          一泊しました。前日に朝倉氏館跡周辺を見学し、復元街並みと一乗谷城は翌日と
          思っていたところ、例の雨に降られ、山城登城はまたの機会に持ち越すことになり
          ました。宿自体は普通の民宿でしたが、一乗谷の繁栄の跡に止宿するというのは、
          中世城郭ファンとしてはなかなか風流ではないかと自認しています。値段も手頃
          で、なによりご飯が美味しかったです。

        <追記>
           2022年に、再び訪れる機会がありました。この日は快晴で、前回は断念した山城
          にも登りました。復元街並みへ行ってみると、平日ということもあってか劇団の方も
          おらず、観光客も少なくひっそりとしていました。天気は良いので見栄えはよく写真
          もきれいに撮れましたが、雨の日で劇団がいるのと、晴れていて劇団がいないの
          とでは、圧倒的に前者の方が面白かったです。その話を受付でしたところ、今では
          劇団の来る日が土日やGW、お盆などに増えているそうです。なので天気にかかわ
          らず、行くなら休日が絶対におすすめです!

           
 館跡全景。
唐門を正面から。 
 朝倉氏館の唐門と土塁、濠。
朝倉氏館跡を俯瞰。 
 朝倉氏館跡の庭園(国の特別名勝)。
湯殿跡から朝倉氏館跡方面を望む。 
 湯殿跡の庭園(同じく特別名勝)。
湯殿と諏訪館の間の「中の御殿」跡。 
 諏訪館の南門跡。
諏訪館跡の庭園(同じく特別名勝)。 
 上城戸。
下城戸。 
 下城戸の枡形。
地表復元されている街並み。 
 復元街並み。
同上。 
 復元街並みの商店エリア。
 劇団の方がいるときバージョン。
同じエリアを晴れてひっそりした日に。 


BACK