勝山城(かつやま) | |
別称 : 越前勝山城、袋田城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 柴田勝安 | |
遺構 : なし | |
交通 : えちぜん鉄道勝山駅徒歩15分 | |
<沿革> 天正八年(1580)、柴田勝家の姉と佐久間盛次の子で、勝家の養子となった柴田 勝安(勝政)によって築かれたとされる。ただし『信長公記』によれば、同三年(1575) に原長頼が越前国大野郡に2万石を与えられ、勝山城主となったとある。 天正十一年(1583)の賤ヶ岳の戦いで勝家が滅ぶと、越前は丹羽長秀に与えられ、 その家臣成田道徳が4万5千石で勝山城主に任じられた。しかし、同十三年(1585) に長秀が没すると家中で内紛が起こり、道徳ほか多くの家臣が出奔した。同年に 長秀の子長重は若狭一国15万石に減封され、長谷川秀一が勝山を含む越前国東郷 15万石(10万石とも)を与えられた。ただし、秀一のころの勝山城の扱いについては 定かでなく、この後しばらく動向の明らかでない時期が続く。 関ヶ原の戦い後の慶長六年(1601)に結城秀康が越前に封じられると、家臣林定正 が勝山に9800石を領した。だが、定正は同十七年(1612)に2代藩主松平忠直により 追放された。元和九年(1623)には忠直自身が幕府に隠居を命じられ、次弟忠昌が 跡を継いだ。このとき複数の藩が独立し、寛永元年(1624)に秀康の五男直基を藩主 とする勝山藩3万石が成立した。直基は勝山城を居城としたが、同十二年(1635)に 越前大野藩へ転封となり、弟の直良が越前木本藩から3万5千石で勝山藩へ移った。 正保元年(1644)には直良も、直基が山形藩へ加増転封となったのを受けて大野藩 へ移封となり、勝山領は福井藩預かりとなった。このとき、勝山城も一旦廃城となった ものと推察される。 元禄四年(1691)、小笠原貞信が美濃高須藩から2万2千石で勝山に入り、勝山藩 が復活した。貞信の孫信辰の代の宝永六年(1709)、幕府から勝山城跡への築城 許可が下りたが、財政難からまもなく普請は中断された。明和七年(1770)、5代信房 によって工事が再開され、7代長貴のときにようやく完成をみたとされる。ただし、当初 の計画にあった東馬出や蔀曲輪は造られず、天守が上げられることもなかった。文政 五年(1822)には、本丸を火元とする火災により城内の多くの建物を焼失したが、同 九年(1826)に再建された。勝山藩は、長貴の子長守の代に明治維新を迎えた。 <手記> 勝山城は九頭竜川の河岸段丘上に築かれた城です。市役所、市民会館および教育 会館一帯が主城域とされていますが、城跡はきれいさっぱり均されていて何も遺構は 残っていません。 市民会館の駐車場脇(上の地図の緑点)に、城址碑や説明板がひっそりと建てられ ています。それを見ればおおよその旧状をうかがうことができますが、それだけにかく もすっかり何も残ってないというのがいっそう残念です。 ちなみに市街南東郊外には、勝山城博物館という白亜の立派な天守閣があります。 これは相互タクシーの創業者多田清氏が平成四年(1992)に建てたもので、実際の 勝山城とは何の関係もありません。石垣の龍のレリーフがなんとも印象的で、しかも その高さは天守風建造物としては日本一なのだそうです。私は外観を写真に収めて 後にしましたが、余裕のある方は館内まで訪ねてみてはいかがでしょう。 |
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城址碑 | |
標柱と説明板、および城址碑。 | |
おまけ:勝山城博物館 |