江口城(えぐち) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 三好政長か | |
遺構 : なし | |
交通 : 大阪メトロ今里筋線瑞光四丁目駅徒歩15分 | |
<沿革> 天文十八年(1549)の江口の戦いに際して、三好長慶vs.三好政長(宗三)の決戦地となった ことで知られる。築城主も政長といわれるが、確証はない。 細川晴元の重臣として実力を付けていた長慶は、晴元の側近であった同族の政長(長慶の 祖父長秀の従弟にあたる)の排除を要求した。長慶の父元長は、政長の讒言によって失脚し、 後に自害に追い込まれており、長慶から見れば政長は一族とはいえ仇敵であった。 晴元はこの要求を却下したため、長慶は晴元と対立する細川氏綱を擁立して叛旗を翻した。 政長の子政勝の籠る榎並城を包囲した長慶に対し、政長は塩川城に入り、後に伊丹城ついで 三宅城へと移って対峙した。天文十八年五月二十八日には晴元も塩川城から三宅城へ移り、 六角氏の援軍を待つ状態となり、戦況は一時膠着した。 六月十一日、同月中に六角軍が到着するとの報せと受けた政長は江口城に入った。榎並城 と三宅城の連絡路を確保して、六角氏の来援まで戦線を維持するためといわれる。これを見た 長慶はすかさず江口城北側の別府村に弟の安宅冬康・十河一存らを布陣させ、翌日の戦闘で 政長方の援将である近江朝妻城主の新庄直昌を討ち取った。江口城は河中に孤立し、『足利 季世記』によれば、政長は城中で「川舟を 留て近江の勢もこず 問んともせぬ 人を待つかな」 と詠んだとされる。 六月二十四日、六角勢が大山崎まで進軍するという段をとらえ、長慶軍は江口城に総攻撃を かけた。疲弊していた政長軍は持ち堪えることができず、政長以下800名余が討ち死にしたと される。この一戦で晴元は将軍足利義輝と共に近江坂本へ落ち延び、細川政権は瓦解したと される。代わって、三好政権が樹立されたとみるかは諸説あるが、いずれにせよ畿内の勢力図 が画期的に一変したことは疑いない。 その後の江口城については不明である。 <手記> 畿内にもたらした政治的インパクトとしては桶狭間の戦いにも匹敵するであろう江口の戦いの 舞台ですが、江口城については今日ではほとんど分からなくなっています。明治時代の古地図 と照らし合わせると、上の図に示した道路のラインがちょうど江口村の外郭に相当するようです。 ただし、淀川下流域の地形が当時と同じかどうかはかなり疑わしく、とくに北側の神崎川の流路 は大きく異なっていたでしょう。とはいえ、淀川と神崎川の分岐点を利用した、三方を川に囲まれ た城であったことは間違いないと思われます。 城跡の比定地の1つに集落北東隅外側の厳島神社があります。舟運の守り神である厳島神社 が勧請されているということは、江口の名と共にこの場所が水運の要衝であった証左といえるで しょう。現在、神社は王子マテリアの工場敷地内にあるため、許可なく参拝はできません。 ただ、800人以上が2週間近く立て籠もっていたということを考えると、厳島神社付近が主郭と しても、城域はもっと広くなければならないでしょう。個人的には、政長が取り立てた臨時の陣城 とて、集落そのものを堀や土塁、柵で囲った程度のものではなかったかと考えています。 |
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厳島神社のある王子マテリアの工場。 | |
集落南辺の道路。 | |
集落西辺の道路。 淀川の自然堤防上を通っています。 |