有岡城(ありおか)
 別称  : 伊丹城
 分類  : 平城
 築城者: 伊丹氏
 遺構  : 石垣、土塁、堀、井戸跡
 交通  : JR福知山線伊丹駅下車


       <沿革>
           摂津の大身領主伊丹氏の居城として、伊丹城が築かれたことに始まる。伊丹氏は藤原利仁流
          加藤氏の後裔を称しているが、詳しい系譜は定かでない。史料上は鎌倉時代末期が初出とされ、
          南北朝時代までには城が築かれていたとみられている。
           永正十六年(1519)、細川政元暗殺後の権力争いで細川高国に与した伊丹元扶は、細川澄元・
          三好之長らに伊丹城を攻め落とされた。しかし、翌年の等持院の戦いで之長が敗死すると、澄元
          は伊丹城を棄てて阿波へ退き、元扶が復帰した。
           大永七年(1527)、澄元の遺児六郎(晴元)を擁立して高国から離反した波多野元清(稙通)、
          柳本賢治兄弟が伊丹城に攻め寄せた。元扶は半年以上にわたり籠城戦を展開したが、之長の
          孫の三好元長に降伏した。
           翌八年(1528)、賢治と元長が対立し、賢治は晴元に讒言して元長を阿波へ帰還させた。さらに
          元長麾下にあった伊丹城を攻め落とし、元扶は討ち死した。
           享禄三年(1530)に賢治が備前守護代浦上村宗に暗殺されると、高国は村宗の支援を受けて
          上洛した。このとき、元扶の子国扶は高国派の伊丹城主として活動しているが、このときに復帰
          したのか、一時的に賢治に従っていたのかは定かでない。翌四年(1531)、国扶は大物崩れに
          よって村宗らとともに討ち死にした。このとき、国扶の弟とされる千代松(康直)はまだ幼く、駿河
          の今川0義元を頼った。康直は、最終的に徳川氏に仕えて甲斐徳美藩祖となった。
           その後、伊丹親興が晴元の家臣として伊丹城主となっている。親興は、元扶の弟親永の子と
          される。天文十七年(1548)に晴元と元長の嫡男長慶が対立すると、前者を支持した。翌十八年
          (1549)の江口の戦いにおいて、伊丹城は晴元を破った長慶軍に攻囲されたが、落城は免れ、
          翌十九年(1550)に和睦した。
           永禄十一年(1568)に織田信長が上洛すると、親興は織田氏に服属し、池田城主池田勝正・
          高槻城主和田惟政と並んで、いわゆる摂津三守護の1人となった。しかし、元亀元年(1570)に
          勝正は弟とされる知正と池田氏重臣荒木村重のクーデターにより追放され、その知正も同四年
          (1573)に村重の下克上によって城を逐われた。天正二年(1574)、村重はさらに伊丹城へ攻め
          かかり、城は落ちて親興も自害したとされる。
           村重は伊丹城を新たな居城として大改修し、有岡城と改称した。村重は信長に臣従して摂津の
          単独守護を任され、有岡城は3つの砦と広大な総構えをもつ大規模な城塞に変貌した。
           天正六年(1578)七月、三木城攻めに参加していた村重は、突如として有岡城に戻り、信長に
          反旗を翻した。明智光秀や高槻城主高山右近らの説得を受け、一度は信長のもとへ謝罪と弁解
          に向かうが、茨木城主中川清秀の言により再び翻意し、有岡城はじめ周辺諸城に兵を配置した。
          信長が5万といわれる兵を率いて鎮圧に赴くと、右近や清秀らは降伏し、十二月には有岡城での
          攻防戦が開始された。
           しかし、堅城の有岡城は力攻めでは落とせないと判断され、持久戦に切り替えられた。翌七年
          (1579)九月二日、村重は名物の茶壺を背負い、夜陰に紛れて子の村次のいる尼崎城(大物城)
          へ移った。従来は、村重が臆して逃亡したものといわれてきたが、近年では毛利氏の援軍を直接
          要請するためであったとする説も有力視されている。
           村重の有岡脱出は、まもなく織田方の知るところとなり、主亡き巨城に対する調略が始まった。
          総構えの3砦の1つ上搨ヒ砦が内応し、十月十五日に総攻撃が行われた。上搨ヒ砦から寄せ手
          が難なく城内に突入すると、城方に抵抗する術はなく、留守を預かっていた荒木久左衛門(池田
          知正)は開城・降伏した。
           戦後、有岡城は池田恒興に与えられ、恒興は城名を伊丹城に復したとされる。本能寺の変後に
          開かれた天正十年(1582)の清洲会議により、摂津12万石に加増されると、恒興は大坂へ移り、
          嫡男元助が伊丹城主となったとされる。翌十一年(1583)の賤ヶ岳の戦いにより、元助は岐阜城
          を与えられ、これにより伊丹城は廃城となった。


       <手記>
           伊丹城と呼ばれてきた期間が圧倒的に長い城ですが、「有岡城跡」として国の史跡に指定され
          ているため、こちらでも表題は有岡城としています。もともとは猪名川の支流・駄六川沿いの小丘
          を利用した城と思われ、伊丹氏時代の主城域とみられる本丸跡は、中心部がJR伊丹駅となって
          います。
           駅西口を出た広場に説明板や、伊丹氏時代の建物土間に置かれていたとされる沓脱石がある
          ほか、そこから遊歩道を隔てた北側が史跡公園風に整備されています。こちらには石垣や土塁、
          礎石建物跡、2か所ある井戸跡などが保存ないし地表復元されています。
           広場および公園の西側には、堀跡とみられる窪んだ空き地が残されています。市街地化されて
          遺構はほとんどないと思っていたので、本丸の雰囲気がある程度うかがえる堀跡や土塁、石垣が
          見られたことで、やおら嬉しい気持になりました。時間の都合上、今回は本丸部分しか歩けません
          でしたが、機会があれば総構えの3つの砦跡も訪ねてみたいところです。

 史跡公園(?)入口の城址碑。
園内のようす。 
 礎石建物跡と井戸跡。
石垣。 
 土塁。
2つ目の井戸跡。 
 本丸西側の堀跡。
同上。 
 沓脱石(左側)。
JR伊丹駅西口前の説明板。 


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