鈴木氏館(すずきし) | |
別称 : 江梨城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 鈴木繁伴 | |
遺構 : なし | |
交通 : JR沼津駅からバスに乗り、 「江梨」下車徒歩5分 |
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<沿革> 紀伊国藤白を本拠とする穂積姓藤白鈴木氏の出である鈴木繁伴(重伴)は、元弘の乱で 幕府方に与し、元弘三年(1333)に鎌倉幕府が滅びると、進退に窮して郎党30数人を引き 連れ伊豆国大瀬崎へと渡った。大瀬神社のたもとに館を建てて潜伏していたが、観応二年 (1351)の観応の擾乱にともなう薩埵峠の戦いで、繁伴は足利直義に属して敗れ、大瀬崎 南東の江梨村に退いた。江梨の館はこのときに築かれたと推測される。 その後、繁伴は鎌倉公方足利基氏や関東管領上杉憲顕から正式に江梨周辺の領有を 認められ、江梨鈴木氏の初代となった。江梨の鈴木氏館は、現在の海蔵寺境内にあったと される。一方、海蔵寺向かいの航浦院は、寺伝によれば1330年ごろ「杉本左京大夫繁郷」 によって開山されたとある。事実とすれば、江梨には繁伴の入植以前に杉本氏が存在した ことになるが、史料上からは確認できない。他方で、江梨鈴木氏の系図や江戸時代編纂の 『豆州志稿』には、繁伴の後裔として鈴木繁郷の名がみられる。ただし、『志稿』の記述では 繁郷は15世紀前半の人物であるのに対し、系図では繁伴の10代子孫とされるなど、疑問 は残る。 繁郷の孫とされる兵庫助繁宗は、明応二年(1493)に伊勢盛時(北条早雲)が堀越公方 足利茶々丸を駆逐した際(伊豆討入り)、積極的に早雲に協力したとされる。その功により、 江梨鈴木氏は伊豆水軍の将として厚遇された。 明応七年(1498)、いわゆる南海トラフ地震と推定されている明応地震が発生し、大津波 が江梨に押し寄せた。海抜10m近くにある航浦院も波に呑まれ、『江梨航補院開基鈴木氏 歴世法名録』には「庶人海底沈没不知数」と記されている。館も破壊されたものとみられる が、鈴木氏はその後も江梨を拠点とし続けている。同じ場所に館を再建したものと推測され るが、確証はない。 天正十八年(1590)の小田原の役で後北条氏が滅びると、繁宗の曽孫にあたる繁氏は 陸奥国葛巻村小屋瀬に落ち延びた(小屋瀬鈴木家)。江梨の館はこのときに廃されたもの とみられる。 <手記> 江梨は伊豆半島北西岸の小さな入り江の集落で、2kmほど離れた半島先端部には鈴木 繁伴の最初の居館があったとされる大瀬崎があります。周辺は険しく入り組んだ地形で、 今も移動ルートは海岸線沿いに蛇行する道路のみなので、車でも見た目の直線距離以上 にかなり到着するまで時間がかかります。明治までは移動手段はほぼ船に頼っていたと いうことで、半ば落人の水将としてこの地に入った繁伴の胸中やいかにといったところです。 海蔵寺が鈴木氏の館跡と否定されていますが、遺構などはありません。というより、私が 訪ねたとき、川を渡ってお寺に至る橋が流されたかなにかで再建中で、境内には入れず じまいでした。ひとつ上手の橋を渡ったものの、海蔵寺には行けず、その裏手の峰を登る ばかり。それでも、こちらに詰城でもないものかとしばらく歩いてみましたが、それらしきもの は見当たりませんでした。 海蔵寺から川を挟んだ対岸に航浦院があるのですが、私はこちらも館と不可分の関係に あったのではないかと考えています。石垣で固められ、境内が上下2段になっているあたり は、当時のままではないとはいえもとは武士の館であったとしても不思議ではありません。 江梨は穏やかな入り江ですが、大きな港とはいえません。当時も小早程度の小さな船を 並べて、何かあればいち早く駿河方面へ船を滑らせていたのでしょう。 |
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対岸に海蔵寺を望む。 | |
海蔵寺の裏山から江梨の集落と入り江を俯瞰。 | |
航浦院。 |