鈴木繁伴館(すずきしげとも)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 鈴木繁伴
 遺構  : 土居
 交通  : JR沼津駅からバスに乗り、
      「大瀬岬」下車徒歩10分


       <沿革>
           穂積姓藤白鈴木氏当主鈴木重実の長男重伴は、後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を掲げて
          挙兵すると(元弘の乱)、幕府方に与して戦った。元弘三年(1333)に鎌倉幕府が滅びると、
          重伴は進退に窮して郎党30数人を引き連れ、紀伊国藤白から伊豆国大瀬崎へと渡り身を
          潜めた。大瀬神社のたもとに館を建て、名を繁伴と改めたとされる。
           観応二年(1351)、観応の擾乱における薩埵峠の戦いで、繁伴は足利直義に属して敗れ、
          大瀬崎南東の江梨村に退いた。その後、繁伴は鎌倉公方足利基氏や関東管領上杉憲顕
          から正式に江梨周辺の領有を認められ、江梨鈴木氏の祖となった。大瀬崎の館は、早け
          れば繁伴が江梨にを築いて移った時点で廃されたと思われるが、詳しい処遇は不明で
          ある。


       <手記>
           繁伴が最初に館を築いて住んだとされる大瀬崎は、伊豆半島の北西端に突き出た細い
          陸繋島です。城館跡云々というよりも、岬と駿河湾越しに望む富士山の美しさで知られ、
          それだけでも訪れる価値のある観光スポットです。
           陸繋島というと、島が砂嘴で繋がったものなので、たいてい岬の中央は高まりになって
          います。ですが、大瀬崎はなぜかドーナツ形にくり抜いたように真ん中に池(神池)があり、
          繁伴の館はその外洋側にあったとされています。
          神池を一周する遊歩道の脇に説明板が立っていて、そのすぐそばの茂みを覗くと、低い
          土居に囲まれた方形の区画があります。諸資料等で遺構があると記されている場合は、
          おそらくこの土居を指しているものと思われます。ただ、この土居は武士の館とするには
          さすがに狭すぎるように見え、なかんづく30人が一堂に会するのは難しいでしょう。落人の
          住居とすればあり得ないことはないかもしれませんが、館跡だったとしても主たる区画では
          なかったのではないかな、というのが直感です。
           なにより気になるのは、「そんなところに住んでどーするの!?」と訊きたくなってしまう
          その立地です。岬の付け根には7世紀の創建とも伝わる大瀬神社があり、神職が住んで
          いたというならまだわかります。ですが武士の館としては、ほとんどメリットはありません。
          おそらく繁伴は大瀬神社に匿われるようにこの地に雌伏し、機を見て江梨へ移って水軍
          の将として入植したのでしょう。
           ちなみに、館跡一帯は神社の境内で、訪ねるには拝観料が100円かかります。また、
          大瀬崎には海水浴場があり、ダイビングスポットとしても人気ということで宿泊施設や有料
          駐車場は少なからずあります。ただしバスが1日2便しかないので、公共交通機関を利用
          する場合は注意が必要です。夏期には沼津港から大瀬崎への遊覧船が1日4本ほど運航
          されているようなので、そちらと併用するのが良いでしょう。

           
 館のあった大瀬崎越しに富士山の絶景を望む。
同じく大瀬崎海水浴場の砂浜から。 
 館跡は右端付近で、富士山の真下あたりに 
大瀬神社があります。 
 館跡説明板。
遺構とみられる土居に囲まれた方形区画。 
 館前の神池。
 海に囲まれているのに真水が湧いているとか。
国天然記念物のビャクシン樹林。 
 館跡近くにおわす大瀬神社御神木のビャクシン。
 樹齢はなんと1,500年!
 当時すでに樹齢800年の大木だったことになります。


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