榎下城(えのした) | |
別称 : 久保城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 上杉憲清か | |
遺構 : 曲輪跡、土塁、堀、虎口 | |
交通 : JR横浜線中山駅徒歩20分 | |
<沿革> 山内上杉憲房の五男重兼の子憲清によって築かれたとされる。憲清の子憲直は、鎌倉公方 足利持氏と関東管領上杉憲実の対立に始まる永享十年(1438)の永享の乱に際して、持氏に 属して戦った。 しかし持氏方は敗れ、憲直は金沢(横浜市)の称名寺に追い詰められて息子の憲家とともに 自害した。これ以降の榎下城主については一時不明となる。 『新編武蔵風土記稿』には、榎下城主として山田右京進の名が挙げられている。右京進の名 は『小田原衆所領役帳』にもみられる。このことから、榎下城は北条氏時代には小机城の支城 として利用されていたと考えられている。 廃城時期は不明だが、慶長年間(1596〜1614)に城跡に舊城寺(旧城寺)が開かれた。なお 別称の久保城とは、榎下郷久保村にある城として、後世に呼称されるようになったものといわれ ている。 <手記> 榎下城は、舊城寺境内が大手の副郭、本堂裏の高台が主郭、そして主郭の北側の「的場」と 呼ばれる腰曲輪の大きく3つの曲輪からなる城です。寺院化により多少旧状が崩されています が、遺構は概ね良好に残されています。 大手が喰い違い虎口となっていたり、主郭に櫓台と思しき土塁が整えられていたりと、北条氏 の時代まで使用されていたと匂わせる構造をしています。主郭南西に最もしっかりした土塁が あり、その先に「山田右京之進城跡」と書かれた城址碑があります。 両脇は谷を利用した堀となっていて、北には恩田川が流れ、その間に川沿いの街道が走って います。小ぶりな城ながら技巧的かつ遺構の保存状態が良いということで、とても見ごたえの ある城跡であるといえます。 |
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舊城寺。門の辺りが大手です。 | |
案内板と土塁。 | |
薬師堂脇の鉤手に折れた喰い違い虎口の土塁。 | |
本堂裏から主郭を望む。 | |
主郭南西の土塁。 右手奥に「山田右京之進城跡」と書かれた城址碑があります。 |