国分館(こくぶん)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 江口顕輝
 遺構  : なし
 交通  : 江差市街から車で20分


       <沿革>
           現地の説明板によれば、信濃村上氏の出とされる村上政儀が永享十年(1438)に家臣・
          館権太郎義重、江口三郎義盛ら5人で泊湊に上陸した。国分館は義盛の子・江口権之頭
          顕輝によって築かれたとされる。領内は「館の庄」と呼ばれ、そこから館の地名が生じたと
          いわれる。
           明応五年(1496)、政儀は相原季胤と共に安東忠季から松前大館館主に任じられた。
          永正九年(1512)にショヤ・コウジ兄弟の戦いが発生すると、翌十年(1513)に大館が攻め
          落とされ、季胤と政儀、そして救援に赴いていたとみられる顕輝も戦死した。顕輝に男子は
          なく、江口氏および国分館はこれを以て絶えたとされる。


       <手記>
           国分館は、厚沢部川と合流する館川の北岸にある東西に長い独立丘上に築かれていた
          とされています。東麓の道路沿いに説明板が建っていますが、丘の上は畑地として広々と
          開拓され、旧状を留めていないようです。
           蝦夷の歴史には不明点が多く、江口氏や国分館についても腑に落ちない点がいくつか
          あります。まず、政儀が永正十年(1513)に討ち死にしたとすれば、永享十年に蝦夷へ渡来
          したとするのは、不可能ではありませんが世代的にかなり疑問です。来島年が誤っている
          か、渡って来たのは政儀の父ないし祖父などと考えられます。
           次に、国分館から館の地名が生まれたとすれば、幕末の館藩の由来となるわけですが、
          館城や現在の館町の中心部からはだいぶ離れているという点です。国分館は館川の河口
          に位置し、館川の中流から山をひとつ越えたところに館町があり、館城は館町のさらに1km
          ほど南東にあります。国分館自体が館ではなく新栄地区にあり、館地区とこれだけ離れて
          いる理由が定かでありません。現地説明板にある館義重なる人物が実在したとすれば、
          蝦夷で地名を名字にした人物は私の知る限りいないので、むしろ義重こそが館の地名の
          由来であり、その居館は館川中流の中館地区あたりにあった可能性も考えられます。
           最後に気になるのは、ショヤ・コウジ兄弟の戦い以前に今日の厚沢部町内に城館が存在
          していたのかという点です。江戸時代に入っても蝦夷は米穀の穫れない無石の島であり、
          領主層の収入源は海産物に頼っていました。自然、彼らの城館は海岸線沿いに分布して
          おり、内陸部に位置しているのはこの国分館ただ一つです。信濃からやって来た江口氏が
          いきなりこんな奥地を開拓して、十分な食料や換金作物を得られるとは到底思えません。
          国分館があったとすれば、アイヌとの境界にも位置していたことになり、和人の支配がまだ
          不安定だったこの時期に、他国からきてフロンティアの厚沢部に居館を構えるというのは、
          あまりにも無謀なように思うのです。
           そもそも、蝦夷には国分寺も国府もないのに国分館という名称が付けられるのも謎です。
          というわけで、この館にまつわる歴史や環境を見ていくと、どんどん分からない点が増えて
          いく感じでした。

           
 国分館跡全景。
東麓の説明板。 
 説明板付近から見上げる。
丘の上のようす。 
 同上。


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