大館(おお)
 別称  : 徳山館、松前大館
 分類  : 山城
 築城者: 安東氏
 遺構  : 堀、土塁、削平地
 交通  : JR函館駅よりバス
       「松前」バス停下車徒歩15分


       <沿革>
           築城時期は不明であるが、松前は蝦夷管領に任じられた安藤氏(後に安東氏に改姓。
          以下安東で統一)の拠点十三湊などにもっとも近いことから、蝦夷地の和人の城館として
          は最初期に同氏によって築かれたものと考えられている。永享四年(1432)ないし嘉吉
          二年(1442)、安東盛季は南部義政との抗争に敗れ、蝦夷地へと逃れた(年代は、前者
          が『満済准后日記』に、後者が『新羅之記録』に拠っている)。このときまでには築かれ、
          盛季の蝦夷地での拠点となったのではないかと考えられているが、確証はない。
           盛季は、秋田郡に入部した弟の鹿季が上国家を称したのに対し、下国家を名乗った。
          盛季の子康季とその子義季は、ともに南部氏との戦いで命を落とし、享徳二年(1453)
          に盛季の弟潮潟道貞の孫の師季(後に政季に改名。以下政季で統一)が下国安東氏を
          継いだ。康正二年(1456)、政季は上国安東惟季の招きに応じて出羽国小鹿島へ移り、
          檜山安東氏の祖となった。この際、政季は蝦夷地に三守護を置いて統治にあたらせた。
          三守護の1人松前守護の下国安東定季は、大館を居城とした。
           翌長禄元年(1457)、コシャマインの戦いが勃発し、大館もコシャマイン率いるアイヌ軍
          に攻め落とされ、館を守っていた定季と相原政胤が捕えられた。この戦いでは、大館を
          含む道南十二館と呼ばれる和人の拠点のうち10館が落とされたが、生き残った花沢館
          を守る武田信広の活躍によりコシャマインは討ち取られ、定季・政胤も救出された。
           定季と政胤が死去すると、大館はそれぞれの子である恒季と季胤が継承した。しかし、
          恒季は素行が悪く、その粗暴さを主君檜山安東忠季に訴えられ、明応五年(1496)に
          誅伐された。大館は、季胤と村上政儀の両名が引き継いだ。
           永正九年(1512)に発生したショヤ・コウジ兄弟の戦いにより、翌十年(1513)に大館
          は攻め落とされ、季胤と政儀は討ち死にした。ショヤ・コウジ兄弟は信広の子蠣崎光広
          によって謀殺され、光広は空き城となった大館に入城した。大館襲撃については、光広
          が仕組んだものとする説もあるが、確証はない。光広は檜山安東尋季に松前守護兼任
          を事後追認させ、蝦夷地支配を主導する立場を獲得した。
           光広とその子義広(良広)は大館へ居城を移し、改修を加えて徳山館と名も改めた。
          ただし、今日ではこれ以降も大館と呼びならわされることが多い。また、大館と蝦夷地
          経略のため、蠣崎氏累代当主は大館と上ノ国勝山館を行き来する生活を送っていたと
          される。
           慶長五年(1600)、義広の孫の慶広は、大館の南の福山に新たな居城の築城を計画
          した。福山城(松前城)は同十一年(1606)に落成し、大館は廃城となった。
           ちなみに、慶広は姓を蠣崎から松前へ改めたが、巷説ではこれは徳川氏の前の苗字
          である松平と前田氏から一字ずつとったものとされる。しかし、上記の通り松前の地名
          ないし地域名は、少なくとも15世紀に三守護が置かれた時点で存在していたことになる。
          現在では、松前の語源はアイヌ語の「マトマナイ(mat-oma-nay)」ないし「マトマイ(mat
          -oma-i)」とされ、「婦人のいる所(川)」の意とされる。


       <手記>
           大館は、大松前川の支脈である小館沢とバッコ沢に挟まれた細長い峰を利用した城
          です。大きく分けて北の大館と南の小館という2つの曲輪から成っています。小館は、
          峰の先端に位置する小規模な出城といった感じです。大館は、南北の口がすぼまった
          箇所を堀切で断ち、内部は小豆袋状の広い空間となっており、上ノ国の勝山館と類似
          したつくりとなっています。
           国史跡に指定されているわりには登城路すら示されておらず、すぐ南隣の松前城に
          比べてかなり残念な状態になっています。私が見つけた登城路は、小館の先端麓付近
          で大松前川を渡り、城の西麓から小館沢を遡上するというものです。一応獣道のような
          人の通った跡はあるのですが、案内などはありません。小館沢の途中には、仕切り状
          にせり出した土塁があります。おそらく、このあたりが当時の大手で、番所のような施設
          が存在したものと推測されます。
           登り切った先は大館の南端付近になります。現在大館内部は部分的に畑地となって
          おり、その他は藪です。ざっと表面観察した限りでは、とりたてて遺構らしきものはみら
          れませんでした。登りきった地点からさらに尾根脇を南に進む道があり、その先に堀切
          があります。おそらく、大館と小館を分ける堀と思われます。道は、堀底を越えて東麓
          へと下っています。堀から小館へ少し分け入ってみましたが、こちらは完全な笹薮で、
          とても踏査できるようすではありませんでした。
           堀から東麓へ下りると、民家の裏手の畑へ出ます。東側からこの道を上ろうとすると、
          民家の敷地内を抜けなければなりません。したがって、こちら側からの登城はまったく
          おすすめできません。私が訪れたときには、ちょうどご主人が作業をしていらっしゃった
          ので通過の了解をいただけたうえに、お話を伺うこともできました。それによれば、大館
          の北限の空堀もあるが、藪に埋もれてやはり見えないとのことでした。国が調査を行う
          素振りもないので、どうしても荒れてしまうとのことでした。
           同じ大館の東麓に徳山大神宮があり、境内の一画には「ゴローウニン外 幽閉地」の
          石碑と説明板があります。ここからバッコ沢をしばし遡ったところに、19世紀初頭に日本
          に捕えられたロシア人ゴローウニンらが幽閉された牢屋があったとのことです。はじめは
          ここから城へ登ろうとしたのですが、沢がさらに二股に分かれるあたりで道がなくなり、
          断念しました。その手前が牢屋跡だと思うのですが、そこには西麓と同様の仕切り土塁
          で二分された削平地がありました。直感的には、こちらもかつての大館の登城口であり、
          牢屋跡とされているところには、当時やはり番所が置かれていたのではないかと思われ
          ます。当該区域は、砂防ダム建設にともなう発掘調査がなされており、建物礎石や中世
          のものとみられる中国青磁などが見つかっているそうです。

           
 大館跡を見上げる。
 見えているのは小館曲輪の部分。
大館内部のようす。 
 大館と小館の間の堀切。
小館沢沿いの土塁。 
 バッコ沢沿いのゴローウニン幽閉地跡のようす。
同地の土塁。 


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