| フライブルク城(Burg Freiburg) 付 フライブルク |
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| 別称 : ブルクハルデン城、レオポルツブルク城 | |
| 分類 : 山城(Höhenburg) | |
| 築城者: ツェーリンゲン伯ベルトルト2世 | |
| 交通 : フライブルク市電オーバーリンデン電停徒歩10分 | |
| 地図 :(Google マップ) | |
<沿革> 1091年、ベルトルト2世・フォン・ツェーリンゲンによって築かれたとされる。当時、ザーリアー朝 神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世と対立していたベルトルト2世は、帝位を争っていたヴェルフ家や ローマ教皇の支持を取り付けて、シュタウフェン家のシュヴァーベン大公フリードリヒ1世の対立 公としてシュヴァーベン公を称した。1098年、ベルトルト2世とフリードリヒ1世は和議を結び、後者 を唯一のシュヴァーベン公と認める代わりに、前者はチューリッヒの所領や支配権を得た。また、 皇帝から公爵位を正式に与えられ、本貫および居城であったツェーリンゲン城にちなんでツェー リンゲン公と号した。 フライブルク城の麓には根古屋が営まれたが、ベルトルト2世の子コンラート1世は、1120年に 皇帝ハインリヒ5世の承諾を得て城下に市場権を付与し、商人の入植を促した。家名の由来たる ツェーリンゲン城は経済的な発展の望めない場所にあり、また帝国の権利上の制約があったと みられており、ツェーリンゲン伯の居城は純粋な私有財産であったフライブルク城へと移った。 1198年にホーエンシュタウフェン朝の皇帝ハインリヒ6世が薨去すると、コンラート1世の嫡孫 ベルトルト5世が皇位候補の一人となったが、得票不足を悟ると辞退する代わりに、多くの所領 や代償金を獲得した。1200年、ベルトルト5世はフライブルク市の教区教会跡に新たな大聖堂の 建造を命じている。 1218年にベルトルト5世が没すると、ツェーリンゲン公爵家は男子なく断絶した。フライブルク領 は義兄のウーラッハ伯エギノ4世が相続し、フライブルク伯を称してフライブルク城に移り住んだ。 フライブルク伯家とフライブルク市は金銭上の問題を巡ってしばしば衝突したとされ、とくに1299年 には、エギノ4世の曽孫にあたるエギノ2世と義兄弟のストラスブルク司教コンラート3世・フォン・ リヒテンベルクとの戦いで、市民軍が投石機を以てフライブルク城を攻め落としている。 1366年、エギノ2世の孫エギノ3世は軍勢を擁してフライブルク市に夜襲を仕掛けようとしたが、 市民勢が兵を募って反撃に転じ、当時「ドイツで最も美しい要塞」とも称されたフライブルク城を 占領・破壊した。1368年、フライブルク市民はエギノ3世からフライブルクの支配権を買い取り、 オーストリア公ハプスブルク家の庇護下に入ることを選択した。オーストリア公レオポルト3世は 廃墟となった城山(シュロスベルク)を市民に与え、城を再建しないことを文書で宣言した。 15世紀半ばごろには、市によってシュロスベルクに木造の簡易な城砦設備が建設されていた とみられている。1525年5月、農民戦争に際してハンス・ミュラー率いる農民反乱軍がこの城砦 を占拠して、フライブルクに砲撃を加えた。そのため市は農民軍に一度は融和的な態度を見せ たが、同年7月にミュラーは貴族軍に敗れて捕えられた。戦後、1527年と1530年に追加の普請 が行われているが、本格的な城郭は築かれなかったとみられる。1536年には、336年の歳月を 経て、フライブルク大聖堂が完成を見ている。 17世紀前半の三十年戦争において、フライブルクはさまざまな勢力に包囲・占領された。なか でも1644年8月に帝国軍およびバイエルン軍と、フランス軍の間で行われたフライブルクの戦い は、長い三十年戦争での数ある戦闘で最も犠牲者の多い合戦の一つといわれる。この戦いは フライブルク周辺のボール、シュリーアベルク、ザンクト・ペーターで3日に分けて繰り広げられた 会戦の総称とされる。フランス軍に占領されていたフライブルクを奪還すべく帝国軍が包囲して いたところ、フランスの救援軍との間で合戦に及んだものであり、フライブルク守備隊は一連の 戦闘に加わらず戦後も市を保持したためフランスが勝利を喧伝したものの、実際にはほとんど 痛み分けであったといわれる。 16448年にヴェストファーレン条約が結ばれて戦争が終結すると、フライブルクはオーストリア の手に戻った。1654年からシュロスベルクの城塞建築が企図され、1668~74年にかけて皇帝 レオポルト1世の命で近代要塞「レオポルツブルク」が建造された。1679年のナイメーヘン講和 条約でフライブルクがフランスに割譲されると、要塞の設計者として名高いヴォーバンによって、 シュロスベルクの要塞は大規模に改修された。1681年には、フランス国王ルイ14世自らが工事 の視察に訪れている。1697年に大同盟戦争の講和条約であるレイスウェイク条約が結ばれる と、フランスはフライブルクをオーストリアに返還した。 スペイン継承戦争末期の1713年、要塞はルイ・エクトール・ド・ヴィラール元帥率いるフランス 軍に包囲・攻略され、翌1714年のバーデン条約で返還された。1740年にオーストリア継承戦争 が勃発すると、1744年に国王ルイ15世自ら親征してフライブルクを包囲し、降伏に追い込んで いる。翌1745年のドレスデン条約を受けてフランス軍は撤兵したが、その際に要塞を徹底的に 爆破した。後には瓦礫の山が残されたまま、城塞が再建されることはなかった。 <手記> フライブルクはフランスやスイスにも近いドイツ南西部の中核都市です。直訳すると「自由の 城」という意味で、同名の街がドイツ内外に存在するため、地域名を取ってフライブルク・イム・ ブライスガウとも呼ばれます。バーデン地方の代表都市の一つであり、フライブルク大学がある ことでも有名なことからドイツでも大都市だと思っていたのですが、訪れてみるとコンパクトな 中規模の街といった感じで、とても暮らしやすいように感じました。 旧市街背後の峰がシュロスベルク(城山の意)で、ヴォーバンの設計した要塞は3つのピーク に跨っていました。最も前方の曲輪群は中世のフライブルク城があったところで、ルートヴィヒス ヘーエ(ルートヴィヒの丘)と呼ばれています。レオポルト1世が改修したときには、宮殿に稜堡が 張り出す程度だったようですが、ヴォーバンによって完全な要塞造に改められ、中世的な部分は 消滅したようです。今ではカノーネンプラッツ(砲台)と呼ばれるテラスや、主塔跡とみられる頂部 が展望台となっています。ルートヴィヒスヘーエの背後には、中世の堀切を拡張したとみられる 切通しの谷となっていて、要塞以前を語るおそらく唯一の遺構といえます。堀切の先にも稜堡が あり、ほとんど藪と森に埋もれていますが、部分的に石塁が残っていました。 2番目のピークは独語でザルツビュクスレ(塩蔵の意か)、仏語でエーグル砦といったそうで、 今日ではシュロスベルクトゥルムという展望塔が建っています。長い螺旋階段を上った先には、 旧市街はもちろんフランスはアルザスの山並みまで望める絶景が待っています。こちらも要塞の 遺構らしきものはほとんど見られず、東側にわずかに稜堡の痕跡らしい地形が認められる程度 です。その先の尾根筋に延びる通路は、復元と思いますが石塁で両サイドが固められ、途中に 古絵図にも載っている鋭角の突出部が付属しています。 東端のピークはカレ砦と呼ばれ、小さな四稜郭とその奥の広い郭で構成されていたようです。 四稜郭はやはり湮滅していて、地表に外郭ラインを表すとみられる石列が配置されています。 郭内に土塁状の高まりも見られるのですが、外郭ラインには則しておらず、遺構かは不明です。 隣接する広い郭には空堀が長々と残っており、ここまで来てようやく遺構らしい遺構に出会え ました。逆に、シュロスベルク自体を訪れる人は少なくないものの、ここまでやって来る物好きも 私しかいませんでした笑 フランス軍が徹底的に破壊した経緯もあってか、旧市街の城塞遺構もあまり残っていません。 南東隅のシュヴァーベン門と南西端付近のマルティン門の2門が建つほか、その間のアウグス ティーナー広場に城壁らしいものが見られます。ただ、城壁については低すぎる感があるほか、 一部がトイレになっているので、遺構ではないようにも思います。 日本と異なり、中世ヨーロッパでは城と城下町が対立して合戦に及ぶことが少なくありません。 フライブルクもその例に漏れなかったものの、比較的早期に領主が駆逐され、城が廃されたと いうのは特筆すべき点といえるでしょう。フライブルクの城と街の歴史はほとんど不可分である ため、ここでは両者を分けずに同一の項に収めることにしました。 |
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| フライブルク大聖堂とシュロスベルク。 | |
| ルートヴィヒスヘーエを見上げる。 | |
| ルートヴィヒスヘーエの頂部。 | |
| その下のカノーネンプラッツ(砲台)。 | |
| フライブルク城の説明板。 中世期の復元CGが載っています。 |
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| こちらは要塞の説明板。 | |
| ヴィルヘルムスヘーエ背後の堀切。 | |
| 同上。 | |
| 堀切の先の稜堡跡。 | |
| 稜堡の石塁か。 | |
| 同じく稜堡の一つを望む。 | |
| ザルツビュクスレのシュロスベルクトゥルム。 | |
| トゥルム(塔)から古城跡を見下ろす。 | |
| 同じくカレ砦跡を望む。 | |
| ザルツビュクスレ東側の高まり。 稜堡跡の一部か。 |
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| カレ砦跡へ向かう尾根筋の通路。 要塞時代を復元したものか。 |
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| カレ砦の四稜郭跡。 | |
| 四稜郭の外郭ラインをなぞる石列。 | |
| 同上。 | |
| 郭内の土塁状地形。 遺構なのかは分かりません。 |
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| 四稜郭に隣接する広い郭の空堀。 | |
| 同上。 | |
| 広い郭の北西隅。 | |
| 同上。 | |
| 同じく北東隅。 | |
| フライブルク大聖堂。 | |
| 大聖堂の内部。 | |
| シュヴァーベン門。 | |
| アウグスティーナー広場の城壁のようなもの。 遺構かは微妙です。 |
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| マルティン門。 | |