ツェーリンゲン城
(
Burg Zähringen )
 別称  : なし
 分類  : 山城(Höhenburg)
 築城者: ツェーリンゲン家
 交通  : フライブルク・ツェーリンゲン駅徒歩25分
 地図  :(Google マップ

       <沿革>
           ツェーリンゲン城の建つ城山には、4~5世紀ごろにアレマン人の高地性集落が営まれていた。
          ボーデン湖畔のトゥルガウ伯であったベツェリン(ベルトルト)・フォン・フィリンゲンの子ないし孫と
          されるベルトルト1世は、11世紀前半にブライスガウも領してツェーリンゲン家を称した。しかし、
          居城はライン河畔のリームブルク城であったとされ、ツェーリンゲンにはまだ城が築かれていな
          かった。シュヴァーベンの実力者であったベルトルト1世は、神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世から
          シュヴァーベン大公の地位を約束されていたが、1057年のハインリヒ3世が薨去すると、未亡人
          アグネス・フォン・ポワトゥーは公位と領地をルドルフ・フォン・ラインフェルデンに与えた。代わりに
          ケルンテン公位とヴェローナ辺境伯位を得たものの、どちらもシュヴァーベンからは離れており、
          ほとんど名のみであったとされる。
           ベルトルト1世の次男ベルトルト2世は1079年にルドルフの娘アグネスと結婚し、ハインリヒ3世
          の子の皇帝ハインリヒ4世と対立した。ツェーリンゲン城はベルトルト2世によって築かれたとみら
          れているが、築城年などは明らかでない。1092年、ベルトルト2世は同じくザーリアー朝のハイン
          リヒ3世と対立していたヴェルフ家やローマ教皇の支持を受けて、シュヴァーベン(対立)公に選出
          された。1098年、ベルトルト2世とシュタウフェン家のシュヴァーベン大公フリードリヒ1世は和議を
          結び、後者を唯一のシュヴァーベン公と認める代わりに、前者はチューリッヒの所領や支配権を
          得た。また、皇帝からベルトルト2世は改めて公爵に叙され、ツェーリンゲン公と号した。
           この間、1091年にフライブルク城が築かれ、ベルトルト2世の子コンラート1世の代までに居城が
          移されている。ツェーリンゲン城は経済的な発展が望めないうえ、帝国の権利上の制約があった
          とみられている一方、フライブルク城は交通の要地であり純粋な私有財産であったことが理由と
          考えられている。1128年に、「apud castrum Zaringen(ツェーリンゲン城にて)」という文書が発行
          されているのが、ツェーリンゲン城に関する史料上の初出とされる。
           1146年、理由は不明ながらフリードリヒ1世の孫にあたるフリードリヒがツェーリンゲン城へ兵を
          進め、ほとんど無抵抗で占領した。フリードリヒがフリードリヒ1世(バルバロッサ)として帝位に就く
          と、コンラート1世とその子ベルトルト4世は概して皇帝に忠実に振る舞い、勢力を拡張している。
          しかし、1218年にベルトルト4世の子ベルトルト5世が没すると、ツェーリンゲン家の男系は断絶
          した。ツェーリンゲン城は皇帝フリードリヒ2世に収公され、1246~1250年の間にフライブルク伯
          コンラート1世によって占領・破壊された。その後に修築されたとみられるものの、1278年に再び
          フライブルク伯とフライブルク市、そして帝国の3者が争うなかで破壊された。
           1281年以降になって、ツェーリンゲン城はハプスブルク家のドイツ王ルドルフ1世によって再建
          されている。その後はシュピッツェンベルク伯に与えられ、1296年にフライブルク伯の手に帰した。
          1327年、フライブルク伯は城をフライブルクの有力貴族であるシュネヴリン・フォン・ベルンラップ家
          に売却した。1422年には、バーデン辺境伯ベルンハルト1世が城の4分の1を取得し、共同所有者
          となった。ベルンハルト1世は、ツェーリンゲン家の家祖ベルトルト1世の長男で、ツェーリンゲン城
          を築いたベルトルト2世の兄ヘルマン1世の後裔である。1502年には、皇帝マクシミリアン1世の
          宰相コンラート・シュトゥルツェル・フォン・ブーフハイムも城の4分の1を購入した。また1507年には、
          ベルンハルト1世の曽孫にあたるクリストフ1世が、さらに8分の1を買い増している。
           1525年の農民戦争に際し、ツェーリンゲン城は大きな損傷を受けた。1544年のゼバスティアン・
          ミュンスター著『コスモグラフィア』において、「破壊された城館」として記述されている。
           クリストフ1世の7男エルンストの系統は1803年にバーデン選帝侯に昇り、1806年に神聖ローマ
          帝国が解体すると大公となった。1815年のウィーン会議によって国家連合体としてのドイツ連邦
          が発足すると、バーデン大公国はその主要領邦の一つとなり、廃墟となっていたツェーリンゲンの
          城跡もバーデン大公の所有となった。ツェーリンゲン城は大公家の起源として一定の修復工事が
          成され、今日に至っている。


       <手記>
           ツェーリンゲン城はフライブルク旧市街の北東5km弱のところにあります。麓の集落からでも1km
          以上入った山の上にあり、たしかに経済的発展性に乏しく、要害性も高いとはいえません。西麓の
          ブルクアッカー通り北東端から山道に入ったのですが、途中からグーグルマップのルートとはやや
          ずれていて、部分的に勘で直登せざるを得ませんでした。また、ルート上には竪堀状の堀底道が
          長々と続いていましたが、城と関係があるのかは不明です。
           城跡には円形の主塔が建っているものの、私が訪れたときは修復工事中で立ち入りできません
          でした。工事が進んでいるようにも見えず、いつ終わるのかは神すら知らない感じです。私の登城
          したルートでは、まず主郭北側の副郭に至ります。ここには建物の基部石塁や用途不明の溝跡が
          散見され、2008年には部分的な発掘調査も行われたそうです。主郭の南側には、修復されたより
          高い城壁や、主城域を囲む空堀も見られます。
           ですが、この城で一番の見どころは、城山を少し南西へ下ったところにありました。すなわち上記
          の沿革の最初にある高地性集落の空堀がそれです。空堀は城山の中腹をぐるっと囲っていたよう
          ですが、とくに西辺の遺構は見事。深々として長大で、日本の戦国時代後期の山城跡と言っても
          まずバレないでしょう。ツェーリンゲン城の主郭部からはやや離れていますが、歴代城主家がこの
          堀の存在に気付かないわけはなく、おそらくそのまま防御設備として利用していたと思われます。
          主郭部との間の緩やかな斜面には、かつてアレマン人の集落が広がっていたと推測され、中世も
          城兵の駐留スペースとして使われていたと考えられているようです。南西端には堀を跨いで物見
          のような小規模な突出部がみられ、やはり中世の造作ではないかと思われます。
           こうした高地性集落は日本でも弥生時代に存在し、堀に囲まれたものでは新潟県の斐太遺跡
          あります。また、堀は見つかっていないものの、瀬戸内地域には農耕社会の弥生時代には不便で
          あったはずの高所に、紫雲出山遺跡八堂山遺跡など複数の高地性集落が見つかっています。
          時代的には日本の方が数百年古いものの、こうして洋の東西に類似した要害集落が存在し、かつ
          遺構が現存しているというのは、実に興味深く感じました。
           他方で中世ツェーリンゲン城の方は、今も続くバーデン大公家がツェーリンゲン公も名乗っている
          にも関わらず、ほとんど顧みられていない感じでたいへん残念です。

  
 主城域北側の切岸状地形。
主郭北の副郭の建物基部石塁。 
 同上。
副郭のようす。 
 副郭の堀および溝状地形。
2008年に発掘が行われたあたり。 
 主塔。
主郭と説明板。 
 主郭西下の城壁跡。
同上。 
 主郭西側の空堀。
アレマン人の高地性集落の空堀。 
 同上。
同上。 
 空堀南西端の物見台状突出部。
高地性集落を含めた城山の地形図。 
  城山西方尾根の堀底道。
同じく竪堀状地形。 
城との関連は不明です。 


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