藤目城(ふじめ) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 斎藤師郷か | |
遺構 : 曲輪、堀、 | |
交通 : JR予讃線豊浜駅からバスに乗り、 「粟井」下車徒歩20分 |
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<沿革> 斎藤下総守師郷によって築かれたと伝わる。師郷の父信国は加賀国の出身とされるが、詳しい 出自や築城の経緯などは定かでない。 天正四年(1576)、師郷は長宗我部家臣となっていた縁戚関係にある阿波の大西頼包の誘いに 応じ、孫を人質に出して長宗我部氏に降った。これに憤激した讃岐の諸将は、三好氏一門である 十河存保に諮り、存保は聖通寺城主奈良勝政と天霧城主香川之景に藤目城攻めを命じた。 しかし、之景は兵を出さなかったため、天正六年(1578)に勝政を主体とする讃岐の国人連合軍 3千が藤目城へ攻め寄せた。城内には長宗我部氏の援軍を含めて1千の兵力があったが、師郷は 一戦も交えず闇に紛れて逃亡した。城を接収した勝政は、新目弾正を守将に置いた。 この敗戦を逆に好機として、長宗我部元親は同年冬に5千の兵で本格的な讃岐侵攻を図った。 勇将として知られる弾正は、迫る土佐勢に対して伏兵を仕掛け、奇襲で攪乱した後に籠城の構え を見せた。攻城戦は讃岐史上有数の激戦となったが、夜になって本丸の一角が破られ、500人の 城兵は弾正以下悉く討ち死にした。長宗我部軍にも、約700もの戦死者が出たといわれる。 戦後、師郷が藤目城主に復帰した。豊臣秀吉が天正十三年(1585)に四国を平定するまでには 廃城となったものとみられる。 <手記> 比高80mほどの藤目山に築かれた城で、北東麓の粟井神社が目印です。本殿の裏ないし境内 南東の駐車場から登ると、まず藤目山のひとつ東側の丘上に到達し、ここが二の丸と伝ええられ ています。藤目城跡の石碑や説明板は、本丸ではなくここに建てられています。 本丸のある主峰に登る手前には堀切跡が残り、また脇の谷筋には竪堀のように見える地形も ありますが、こちらは遺構かどうか分かりません。藤目山は外観どおりの緩やかな小山で、大した 苦も無く本丸手前の剣山大権現に着きます。権現社とその上の藤目稲荷大明神の境内は、両方 ともおそらく腰曲輪の転用でしょう。 本丸は細長く広大な1枚空間で、今ではミニ八十八箇所巡りのお地蔵さまが立ち並んでいます。 本丸の背後にも、浅いながらも堀切跡が見受けられ、また南東辺には帯曲輪が設けられており、 その中途には虎口跡のような開口部が認められます。 全体として、とにかく藤目山が緩やかで要害性に乏しく、城自体も規模や構造に特徴があるとは いえません。個人的には、新目弾正はこんなところに立て籠もるより、先に攻め落とされた本篠城 の救援に向かったほうが、いくらか効果的な抵抗ができたのではないかなと感じました。 |
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東から藤目城跡を望む。 中央奥のピークが本丸。 手前左手が二の丸。 |
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二の丸の城址碑。 | |
同じく説明板。 | |
二の丸から本丸を望む。 | |
本丸登山口の堀切。 | |
本丸斜面の竪堀状地形。 | |
剣山大権現。 | |
藤目稲荷大明神。 2社とも腰曲輪跡か。 |
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本丸のようす。 | |
同上。 | |
本丸背後の堀切跡。 | |
本丸南東辺の帯曲輪。 | |
帯曲輪の切岸。 | |
帯曲輪の虎口状開口部。 |