吉田城山(よしだ)
 別称  : 吉田城、小倉山砦
 分類  : 平山城
 築城者: 不明
 遺構  : 曲輪跡、堀、土塁
 交通  : 富士急行富士吉田駅よりバス
       「新屋」または「城山入口」バス停下車


       <沿革>
           『妙法寺記』には、文亀元年(1501)九月十八日に北条早雲が郡内へ侵入し、
          「吉田城山小倉山両所ニ代ヲ致テ」とある。この「代」については、城や陣、あるい
          は烽火を指すものなど諸説ある。いずれにせよ、このときかそれ以前には何らか
          の施設があったことを示している。
           同記によれば、永正十三年(1516)七月に、今川勢が郡内に侵攻した。同年
          十二月二十六日には「吉田ノ城」に拠った駿河勢を武田軍が攻め、郡内の豪族
          西海右近・平八ら兄弟3人および大石与五郎が戦死した。同月二十九日には、
          船津館主小林宮内丞が出陣し激戦が続いた。周辺住民は、難を避けて鵜ノ島
          (河口湖の「うの島」)で越年した。この戦いは、翌年一月十二日に講和が成立
          して終息した。
           これ以降の吉田城山については不明である。


       <手記>
           吉田城山は、南の小倉山から細長く伸びた丘陵先端にあります。小倉山との
          間には、旧鎌倉街道が走っています。城名については、『日本城郭大系』では
          「吉田城山」、 『中世城館調査報告書集成』では「吉田城」、『探訪ブックス:
          中部の城』では小倉山砦となっています。
           城は南北2つの峰からなっていて、北側の峰が主郭部と思われます。主郭は、
          その下の腰曲輪と合わせて大きく2段の構えとなっていて、南峰との間に堀切が
          あります。ほかにもいくつかの削平地を従えているようにも見えますが、はっきり
          したことはいえません。
           南峰は、大部分がホテルの用地として造成されたということで、とくにピークの
          南側は遺構の確認は困難な状態です。このホテルは、建設されなかったのか
          された後で取り壊されたのか、今では更地です。南峰は、頂上の曲輪から北に
          向かって数段の削平地が連なっています。頂上の曲輪は周囲を土塁で囲まれ、
          また南側に堀切とそこから東に延びる竪堀があります。
           『大系』には、遺構の状態は「必ずしもはっきりし」ないとありますが、私は割合
          残っている方ではないかと感じました。現在の遺構を鑑みるに、16世紀初頭に
          一時的に取り立てられただけの城とは思えません。あるいは、天正十年(1582)
          の天正壬午の乱に際し、御坂城などとともに北条氏によって改修されたのでは
          ないかと推測されます。

           
 主郭のようす。
主郭から北側の腰曲輪を望む。 
 主郭南側の堀切。
南峰頂上の曲輪と北側の削平地群。 
 南峰頂上の曲輪の土塁。
南峰頂上の曲輪南側の竪堀。 


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