船津館(ふなつ)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 小林氏
 遺構  : 空堀か
 交通  : 富士急行河口湖駅よりバス
       「林」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           小林氏の館と伝えられる。小林氏は上野原加藤氏の一族とされるが、詳しい系譜は
          不明である。『妙法寺記』の文亀四年(1504)の項に「船津つゝの口を小林尾張入道殿
          本主のふさぎ玉ふ所を取のけ玉へは花立のかけなとを掘出し玉ふ」とあり、小林尾張
          入道道光が船津で何らかの土木工事(河口湖の湖岸改修か)を行ったことがうかがえ、
          これ以前にはすでに船津に館が構えられていたものと推測される。
           大永元年(1521)、武田信虎が「大原(荘)船津」に「小林宮内丞殿(道光かその子の
          昌喜)」を訪ねている。翌日、信虎は小山田氏の居館中津森館へ向かった。
           また『妙法寺記』には、天文五年(1536)の項に「小林刑部左衛門殿松原さきを屋鋪
          に御立候」とあり、同八年(1539)には「小林刑部左衛門殿松山を御立て候」とある。
          どちらも松山館を指すものと考えられているが、どちらかの年に居館が松山館へ移され
          たものとみられる。小林刑部左衛門房実は道光の孫または曾孫にあたる。
           その後の船津館については不明である。小林氏は天正十年(1582)に武田氏および
          小山田氏が滅んだときに、運命をともにしたとされる。


       <手記>
           船津館は、八木崎公園入口の交差点南東一帯の字御屋敷にあったとされています。
          八木崎の両側は穏やかな入り江となっていて、対岸の河口から船に乗れば最短距離
          で河口湖を横断できる位置にあります。おそらく、この湖道ルートを押さえることに主眼
          を置いた館だったのではないかと推測されます。
           周辺にはとくに館跡を示すものはなく、正確な位置は不明です。交差点南東に上面が
          削平された小高い丘があります。そして、この丘の南を除く三方は、丘を取り巻くように
          堀状の低い畑地が巡っています。これらが館の遺構のようにも見えるのですが、たしか
          なことはいえません。

           
 比定地にある丘。手前の畑は堀状に低まっています。
 遺構の一部か。
丘の頂上のようす。 
 堀状に丘をめぐる低まった畑地。


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