福釜城(ふかま) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 松平親盛 | |
遺構 : なし | |
交通 : JR東海道新幹線/東海道本線三河安城駅 からバスに乗り、「蔵前」下車 |
|
<沿革> 安祥城主松平長親の次男親盛は、16世紀前葉ごろに福釜松平家を興して分家し、福釜城を 築いた。親盛は勇武をもって知られていたが、甥の宗家当主松平清康が宇利城を攻めた際に 若くして討ち死にした。 天正十八年(1590)に徳川家康が関東へ移封となると、4代康親はこれに従い福釜を離れた。 福釜城もこのとき廃城となったものと思われる。 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後に康親は福釜1千1百石に復帰した。その陣屋の場所は 詳らかでなく、あるいは福釜城址を取り立てたとも考えられるが、確証はない。旗本福釜松平 家は、8代康永で無嗣断絶となった。 <手記> 福釜城は、北西から延びる舌状台地の先端付近にあったとされています。県道西側の畑地 の縁は切岸を利用しているようにも見えますが、これといった遺構は見当たりません。 先端下から県道を東上して最初の角を左に曲がり、その左手の旧家の北西角にある小さな 祠は、福釜城にちなんだものとされています。諸サイトを見ると以前はすぐ近くまで行けたよう ですが、今は家が新しく建ち、少し離れて眺めるくらいになっています。 さらに県道を東上すると福釜町西天の交差点角に「福釜城主松平家榮地」と彫られた石碑 があります。福釜城をダイレクトに示すほとんど唯一のものなのですが、ここはさすがに城域 からはかなり離れています。逆に、石碑の近くには江戸時代初期に康親の子康盛が隠居した とされる福釜古屋敷があります。 |
|
先端側下から福釜城址を望む。 | |
先端側台地際の段差。 城の切岸を利用していると見えなくもないが…。 |
|
福釜城にちなむとされる小祠。 | |
福釜町西天交差点角の石碑。 |