安祥城(あんじょう)
 別称  : 安城城
 分類  : 平城
 築城者: 和田親平か
 遺構  : 堀、土塁
 交通  : 名鉄西尾線南安城駅徒歩10分


       <沿革>
           永享十二年(1440)に和田親平が築き、西方500mほどの安祥古城から移り住んだと伝わる。
          親平は室町幕府奉行衆畠山宗元の後裔で、志貴荘の代官を務めたとされる。
           文明八年(1476)、安祥城は岩津城主松平信光によって奪われた。城主は畠山加賀守某で
          あったとされるが、和田氏との関係は定かでない。『三河物語』によれば、このとき信光は安祥
          の「西野」で踊りを催し、城兵らが見物に出かけた隙を襲撃したとされる。信光は三男の親忠を
          城主とし、安祥松平家を興した。その後、今川氏の三河侵攻により岩津松平家が没落し、親忠
          の子長親が今川氏親の名代伊勢盛時(北条早雲)の軍を退けると、安祥松平家が松平宗家と
          目されるようになった。
           大永四年(1524)、長親の孫清康は岡崎松平家を攻め降し、居城を岡崎城へ移した。安祥城
          も、松平宗家直轄の城として引き続き重視されたものとみられる。
           天文九年(1540)、尾張国古渡城主織田信秀が3千の兵で安祥城へ攻め寄せた。清康の子
          広忠は、曾祖父長親の弟の松平長家を安祥城の守将に置き、1千弱の兵で迎え撃った。長家
          を含め、両軍あわせて1千人以上の戦死者を出す激戦だったとされるが、落城時期については
          この第一次安祥合戦から、同十六年(1547)まで諸説ある。ただし、天文十二年(1543)には
          三木松平信孝が信秀と通じて宗家に反旗を翻し、安祥城の北西1kmほどのところに山崎城
          築いて移っている。この時点で安祥城が織田方でなければ、山崎での築城は困難であるため、
          遅くとも同年までには落城していたものと考えられる。
           天文十四年(1545)、広忠は安祥城を奪還すべく出兵したが、織田勢の援軍に挟撃され大敗
          した。このとき、重臣の本多忠豊が殿軍を務めて討ち死にした(第二次安祥合戦)。
           天文十八年(1549)、広忠が没すると今川義元は岡崎城を接収し、同年三月に太原雪斎を
          大将とする1万の軍勢で安祥城を攻めた。信秀の庶長子織田信広を守将とする城方は頑強に
          抵抗し、忠豊の子忠高が討ち死にする痛手を受けて今川・松平連合軍はいったん退却した。
          忠高の子が、後に徳川四天王となる本多忠勝である。同年十月に再び雪斎らが攻め寄せ、
          ついに翌十一月中に安祥城は陥落した。このとき信広は捕虜となり、広忠の子竹千代(徳川
          家康)との人質交換に使われた。城には今川氏の城番として天野景泰や井伊直盛らが派遣
          された。
           永禄三年(1560)の桶狭間の戦いを受けて松平元康(家康)が独立すると、安祥城も松平氏
          の手に復帰したものと思われる。同五年(1562)に織田家と松平家の間で同盟が成立すると、
          安祥城の軍事拠点としての価値はなくなり、廃城となったと推測されている。
           一説には、天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いに際し、羽柴秀吉に備えて改修された
          といわれるが、確証はない。


       <手記>
           安祥城址は安城市街からはやや離れたところにあり、安城市歴史博物館が目印です。車も
          博物館の広い駐車場に止められます。舌状台地、というより三方を低湿地に囲まれた浮き島
          のような土地を利用したものと思われ、北東方面のみが地続きです。高低差はさほどないもの
          の、大手以外からの攻撃は困難だったことでしょう。
           城は大乗寺となっている主郭と、八幡社が鎮座する先端側の副郭、そして大手の曲輪と3つ
          の曲輪に大別されます。規模としては決して大きくなく、他の十八松平家の根城と大差はない
          ものと思われます。大乗寺や八幡社の周囲の土塁が当時のラインとほぼ同じとすれば、さほど
          工夫が凝らされているようにも見えません。
           大手の曲輪は、県道の向こうのゲートボール場の縁が堀のラインとされています。その南東
          には、小祠の立つ櫓台状の塚が見られます。
           安祥城が小牧・長久手の戦いで再利用されたのか否かは、この大手の曲輪をどう見るかに
          よるところと思われます。というのも、安祥城の推定縄張り図には構造の面で幅があり、一番
          の違いはこの大手曲輪にあります。簡素なバージョンでは単なる帯曲輪程度に描かれている
          のに対し、たとえば現地説明板にある千田嘉博氏原案の縄張り図では、馬出に出枡形を重ね
          たような、とても技巧的な大手口としています。道路と公園の下なので、どちらも発掘調査の
          結果を踏まえた学術的な見解というわけではないように思いますが、もし千田案が正しければ
          天正の改修あり、そうでなければ永禄の廃城ということになるでしょう。個人的にはどちらかは
          正直わかりかねますが、仮に取り立てられたとしても、「ちょっと使えるようにしておこう」という
          程度で本格的な改修ではなかったものと考えています。
           ちなみに、徳川家には「三河安祥之七御普代」と呼ばれる7家があり、安祥はその発祥の地
          とされています。ただ、少なくとも榊原家や平岩家などは岡崎に移転して以降の家臣と思われ、
          実際のところは家康が三河を離れて以降に生まれた概念ではないかと推察しています。

           
 主郭の大乗寺を望む。
大乗寺本堂。 
 主郭南西隅の土塁。櫓台跡か。
副郭の八幡社。 
 八幡社周囲の土塁。
八幡社と大乗寺の間の堀跡。 
 ゲートボール場南東隅の櫓台状の塚。
堀跡とされるげーどボール場の縁。 
 大乗寺敷地内にある本多忠高墓碑。


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