深沢城(ふかさわ) | |
別称 : 城山城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 今川氏親か | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁、虎口 | |
交通 : JR御殿場線御殿場駅からバス、 「城入口」バス停下車徒歩5分 |
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<沿革> 永正年間(1504〜21)ごろ、今川氏親によって築かれたと伝えられるが、確証はない。 永禄十一年(1568)に武田信玄が駿河へ侵攻した際(駿河侵攻)、深沢城も武田勢に 占領された。しかし、元亀元年(1570)には北条氏によって攻め落とされ、重臣北条綱成 が守将として配された。同年末には、再び信玄が大軍を率いて深沢城を包囲した。 このとき、容易に落ちそうにない深沢城に向けて信玄が長文の矢文を射ち込み、開城 を迫ったとされる。その内容は、要約すると武田氏の駿河領有の正当性を主張し、逆に 北条氏の非をあげつらい、双方主力を揃えての決戦を呼びかけるものであったとされる。 綱成はこれを無視して籠城を続けたが、信玄は金掘り衆に城を掘り崩させる作戦に切り 替えた。城方はついに耐え切れなくなり、翌元亀二年(1571)一月に城を開き撤退した。 新たな城主には駒井高白斎の子駒井昌直が任じられた。 同年中に甲相同盟が締結され、天正七年(1579)に破綻するまでは、武田・北条両氏 の関係は良好に保たれていた。昌直に宛てて「居城」の防備強化と北条氏の足柄城に 探りを入れるよう命じた年次不詳十月二十七日付の文書が伝わっているが、元亀二年 ないし天正七年のものと推測されている。 天正十年(1582)に武田氏が攻め滅ぼされた際、昌直は城に火を放って甲斐に撤退 した。駿河は徳川家康の領有となったが、深沢城については一時廃城となった可能性 がある。同十二年(1584)に三宅康貞が深沢城主となったが、これが再興されたものか その間に別の城主がいたのかは詳らかでない。 天正十八年(1590)の小田原の陣によって北条氏が滅亡し、徳川家が関東へ移封と なると、深沢城は廃城となった。 <手記> 深沢城は、馬伏川と抜川の合流点に突き出た細長い台地を利用した平城です。今で こそ、足柄SAの北西という以外に目印となるようなものもあまりありませんが、城の南 を足柄街道が走り、東に相駿国境の足柄峠、西に甲駿国境の籠坂峠を控える交通の 要衝に位置しています。すなわち、この城を押さえている者が、他の2国への足掛かり を得ることになります。 大きく3つの曲輪と付属の曲輪群から成っていて、三曲輪の堀外に石碑が建てられて います。石碑の背後には「三日月堀」の標柱があるのですが、これを三日月堀とするの は無理があるように思われます。三日月堀であればその内側は丸馬出しとなっている はずですが、こちらの堀の内側はすぐ三曲輪です。カーブも直角に近く、単純に三曲輪 の隅の空堀であると考えるべきでしょう。 むしろ特筆すべきは、3つの主たる曲輪すべてが虎口に馬出しと喰い違いの土橋を もっていることだと思います。加えて3つの曲輪ともかなりの内部面積を確保していて、 それぞれが単体で充分に戦えるように工夫されているとみるべきでしょう。 他方で現地の標柱では二曲輪と三曲輪の間の堀を「二鶴様式の堀跡」と名付けて いますが、これが何を意味しているのかさっぱり分かりません。とりあえず甲州流軍学 っぽい名称を付けて、武田流築城術と無理に結び付けようとしている感が否めません。 ですが、深沢城の最終改修者は徳川氏ですので、必ずしも武田流にこだわる必要は ないはずです。 閑話休題。台地先端の一曲輪は、(おそらく)城内最大の曲輪です。その西端には 櫓台跡とされる箇所があり、天気が良ければその向こうに富士山がくっきり望めます。 北東端付近からは川べりへ下りる道があり、橋を渡って馬伏川の向こう側へ行けます。 川の対岸には「金山構え」と呼ばれる、周囲を広く深い田に囲まれたこんもりとした丘 があります。おそらく出郭跡と思われますが、明確な遺構は確認できませんでした。 また、三曲輪の外側にも、惣構え状の土塁や堀の痕跡が見られるということですが、 こちらも確定とまでは言い切れないように思います。 ちなみに、諸資料では「ふかざわ」と読んでいるものが多いのですが、少なくとも現在 の地名については「ふかさわ」と読みます。 |
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深沢城址碑。 | |
現地で三日月堀とある三曲輪堀。 | |
おなじく三曲輪堀。 | |
三曲輪内のようす。 | |
三曲輪の馬出し。 | |
三曲輪馬出しの土塁。 | |
三曲輪と馬出しの間の空堀。 | |
二曲輪の馬出し(下馬溜)。 | |
現地で二鶴様式の堀跡とある二曲輪堀。 | |
二曲輪のようす。 | |
一曲輪と二曲輪の間の空堀。 | |
一曲輪のようす。 | |
一曲輪西端の櫓台跡と富士山。 | |
一曲輪下の馬伏川のようす。 | |
金山構えを望む。 | |
推定南東端付近。土塁跡か。 |