足柄城(あしがら)
 別称  : 霞城
 分類  : 山城
 築城者: 後北条氏
 遺構  : 曲輪跡、堀、土塁、井戸跡、
 交通  : 大雄山線大雄山駅よりバス
       「地蔵堂」バス停下車徒歩60分


       <沿革>
           足柄峠越えのいわゆる矢倉沢往還は、古代には東海道の主線であった。昌泰二年(899)、
          物資の略奪を防ぐために足柄峠に関所が初めて設けられた。これにより掠奪は収まったため、
          翌年には関所は廃止された。この関所は、鎌倉時代にはどこにあったかも分からない状態で
          あった。甲信州からの鎌倉街道は、御坂峠→籠坂峠→足柄峠と抜けて鎌倉へと通じていた
          が、鎌倉時代を通じて足柄峠に防御施設が設けられたようすはないとされる。
           足柄峠が城塞化されるのは後北条氏時代のこととみられているが、いつごろ築かれたかは
          明らかでない。足柄峠は、駿河の今川氏だけでなく籠坂峠を通じて甲斐の武田氏との結節点
          ともなるため、武田・今川両氏との緊張が高まった北条氏綱のころに、城の原型がつくられた
          と推測されている。史料上は、天文二十四年(1555)に北条氏康が相模国三田郷に出した、
          足柄城普請の人足供出を命じた文書が初出とされる。永禄十一年(1568)に武田信玄が今川
          氏真を攻撃すると、再び武田・北条間の緊張が高まり、翌十二年〜元亀二年(1569〜71)に
          かけて足柄城の普請が行われた。
           天正十五年(1587)、今度は西から豊臣秀吉の勢力が迫り、足柄城は西方国境を預かる
          最重要拠点の1つとして改修された。城主には、氏康の子氏忠(氏康の弟氏尭の子とも)が
          任じられた。しかし、箱根路の要衝山中城が同十八年(1590)の小田原の役の開戦直後に
          1日にして落城すると、足柄城も徳川家康麾下の井伊直政勢によってあっけなく落とされた。
          このときの守将は依田大膳亮で、十数名〜二十数名の城兵が討たれたといわれる。氏忠ら
          主力は、山中城落城の報に触れて小田原城へ撤退したものと考えられている。
           同年に北条氏が滅亡すると、足柄城も廃城となった。

       <手記>
           足柄城は、標高750m余の足柄峠一帯に築かれています。城跡のほかに、聖天堂や峠の
          茶屋、関所跡に足柄古道などがあります。関所については、冠木門などがあってそれらしく
          なっていますが、どうやら実際どこにあったかは明らかではないようです。
           本城を中心に、東に南郭と明神郭、本城の西に二の郭から五の郭までがわりと直線的に
          並んでいます。足柄城の見どころは、本城から五の郭までの各郭間の空堀にあるといえる
          でしょう。『日本城郭大系』には、石垣が広範囲に認められるとありますが、私が見たところ
          ではほとんど見受けられませんでした。石垣の話は、普請の際に「石切衆」が派遣されたと
          いうこととつながっていますが、後北条氏をはじめ関東の城にはあまり石垣が用いられない
          のが特徴といえます。この石切衆は、石垣構築のためというよりは、岩盤を削って切通しや
          堀切を設けるために送られたのではないかと直感的に考えています。
           足柄城には、北条氏直が天正十年(1582)に氏忠に宛てた『足柄当番之事』という心得状
          が残っています。これによると、大手は法経寺口にあったとされています。この法経寺がJR
          足柄駅前の宝鏡寺を指すとすれば、大手は城の西側に置かれていたことになります。足柄
          古道は城の西から北裾か南裾を伝って明神郭下から東へ抜けていて、通行者は足柄城の
          すべての曲輪に脇を見せて通過しなければならなかったことになります。
           足柄城は国境を押さえる最前線の要害であると同時に、通行監視および封鎖のための城
          でもありました。当時、東西を結ぶ道は足柄峠越えだけでなく複数本ありました。そのため、
          これらの道をすべて掌握するため、足柄城を中心として同一稜線上に多くの砦が設けられて
          いました。足柄城の南には猪鼻の砦、北には通り尾砦があったとされています。とくに北側
          の封鎖線は長く、矢倉沢往還の封鎖という目的から鑑みれば、遠く浜居場城までが広義の
          足柄の城であったといえます。今日、この足柄の稜線はハイキングコースとして親しまれて
          いるようで、多くの登山客とすれ違いました。
           ちなみに、城から離れれば、足柄城址の一番の魅力は富士山の絶景です。訪れる際には
          なるべく快晴の日を選ぶことをお勧めします。また、本城域をはじめ城域の大部分は静岡県
          小山町に属していますが、一般的に「足柄」および「足柄峠」というと神奈川県(相模国)が
          想起されるため、南足柄市の項目に入れました。

           
 本城のようす。
本城にある玉手ヶ池跡。 
水の手と思われます。 
 本城から空堀越しに二の郭を望む。
二の郭から空堀越しに三の郭を望む。 
 四の郭から空堀越しに五の郭を望む。
二の郭下の蔵屋敷と呼ばれる曲輪。 
 南郭のようす。
 物見台が置かれていたと伝わっています。
 また、足柄の山の神社があります。
明神郭下の足柄明神社跡。 
 足柄関所跡。
 実際にここにあったかは不明です。
足柄古道を望む。 


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