福与城(ふくよ)
 別称  : 箕輪城、鎌倉城
 分類  : 平山城
 築城者: 藤沢氏
 遺構  : 曲輪、堀、土塁
 交通  : JR飯田線木ノ下駅徒歩20分


       <沿革>
           伊那の有力国人藤沢氏の居城であるが、築城年代については不明である。藤沢氏は
          神氏こと諏訪氏の一族で諏訪敦貞の二男敦真の子、千野光親の一子清貞が、杖突峠
          から高遠にかけての藤沢谷に拠ったことにはじまるとされる。箕輪を領したのは、鎌倉
          時代のこととみられている。
           天文十一年(1542)、諏訪宗家を滅ぼした武田氏と高遠氏が諏訪郡の領有をめぐって
          対立すると、藤沢頼親は高遠氏に同調した。武田晴信は宮川の戦いで高遠頼継を破る
          と、武田勢はさらに伊那へと侵攻した。
           天文十四年(1545)に高遠城が落城して、頼継が晴信に降伏すると、頼親は伊那の
          反武田の諸国人を糾合し、福与城に籠って抵抗した。義兄にあたる信濃守護の小笠原
          長時の援軍もあり、容易に落城しなかった。しかし、ついには講和やむなしとして、頼親
          は弟の権次郎を人質に差し出し、開城・降伏した。このとき、福与城には火が放たれ、
          いったん廃城となったものとみられる。
           『高白斎記』によれば、天文十八年(1549)に武田氏によって城の鍬立が行われた。
          この年、上田原の戦いで晴信が村上義清に敗北したのを受けて、頼親が武田氏から
          離反している。頼親はまもなく再び降伏したが、これを機に伊那支配の拠点として福与
          城を取り立てたとも考えられる。ただし、城主等は不明である。
           天正十八年(1582)に武田氏が滅び、さらに本能寺の変が起きると、当時田中城
          あった頼親は、福与城を奪還した。しかし、まもなく高遠城に拠った保科正直の攻撃を
          受け、頼親・頼広父子は田中城で自害した。天正壬午の乱を経て信濃が徳川家康領
          に確定すると、福与城は改めて廃城となったものと推測される。


       <手記>
           福与城は、天竜川の河岸をさらに北の鎌倉沢と南の南沢が削った天険に築かれた
          城です。主城域はきれいに整備され、下草が生えて歩きにくかったものの、真夏でも
          訪ねることができます。
           2段に削平された主郭と西のニの郭、北側の北郭がそれぞれ豪壮な空堀を隔てて
          配置され、主城域を形成しています。空堀の大きさから、武田氏後期の改修を受けて
          いるとみて間違いないでしょう。
           主城域の南には、南城や乳母屋敷、宗仙屋敷、権治郭といった区画が並んでいま
          すが、要害性は主城域に比べると格段に低く、根古屋に近いエリアであったものと
          推測されます。権治郭の周囲は土塁となっていて、その背後には堀跡と思しき段差
          があり、堀切を穿って台地を切り離していたものと考えられます。
           福与城は、かの武田信玄に苦戦を強いたことから、伊那平を代表する城郭の1つと
          して知られています。整備状況もよく、駐車スペースも十分にあり、観光名所としても
          アピールできる城跡といえるでしょう。

           
 主郭のようす。
主郭下段から上段の土塁を見上げる。 
 主郭東側の空堀。
同じく空堀越しに南城を望む。 
 主郭上段から下段とその先の北郭を望む。
空堀越しに北郭を望む。 
 乳母屋敷のようす。
権治郭の土塁を望む。 
 権治郭背後の堀切跡か。
箕輪城から福与城を遠望。 


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