船山城(ふなやま)
 別称  : 片切城
 分類  : 平山城
 築城者: 片切氏
 遺構  : 土塁、堀、曲輪、虎口
 交通  : JR飯田線上片桐駅徒歩15分


       <沿革>
           南信の名族・片切氏累代の居城である。片切氏は源義家の従兄弟にあたる信濃守源為公の
          子・源八為基を祖とするとされる。為基の孫の1人(名子)景重は、平治元年(1160)の平治の乱
          で源義朝に与して奮戦し、壮絶な討ち死にを遂げた。これにより、片切氏は平家に所領を没収
          されて一時没落した。しかし、寿永三年(1184)に景重の弟・為遠の孫で、景重の養子となって
          いた片切為安(為康)が義朝の子・頼朝に旧領を返還された。船山城が築かれたのはこれ以降
          のことと思われるが、築城の経緯は不明である。
           戦国時代に入っても、ある程度自立した勢力を保っていたとみられるが、天文二十三年(1554)
          に武田晴信(信玄)が下伊那へ侵攻すると、他の南信諸将とともに降伏を余儀なくされた。片切
          昌為は武田家重臣秋山虎繁の同心となり、春近衆と呼ばれた。
           天正十年(1582)の織田信長による武田攻めでは、南方の拠点城である大島城の城将・武田
          信廉が戦うことなく城を棄てて逃亡していることから、船山城も自落したと推測される。武田氏が
          滅ぶと昌為は浪人となったとされ、片切氏と船山城はそのまま終焉を迎えたとみられる。


       <手記>
           船山城は、天竜川とその支脈の南沢が形成した舌状の段丘先端部に築かれた城です。細長い
          峰先の要害部である通称「出城」と、付け根側の屋敷部である「本城」から成っています。前者が
          中川村、後者が松川町に属しており、現地の説明板も町村ではなく県教委が設置していますが、
          登城口が松川町側にあるので、ここでは松川町の項に入れています。
           守護神とされる御射山神社の前に石碑や説明板が建ち、また鳥居脇の三日月池は最後尾の
          堀切跡を利用したものだそうです。池から続く境内裏手には、堀切の跡が切り通し道として残って
          います。本城は果樹園など耕地となっていますが、南側に別途、堀が見られました。
           本城を抜けるとまた堀切があり、獣除けフェンスを越えて出城に入ります。出城は堀切で3つの
          曲輪に分けられており、船山稲荷の鎮座する東端の曲輪が主郭とみられます。技巧性は乏しい
          もののそれなりの規模があり、南信の名族たる片切氏の意地と限界のようなものが垣間見える
          ような気がしました。城内は明るく歩きやすいので、手軽に中世らしい遺構を拝める優良物件と
          いえるでしょう。

           
 船山城址碑。
御射山神社の三日月池。 
最後尾の堀切跡を利用しているそうです。 
 池から続く境内裏手の堀切跡。
本城のようす。 
 本城の堀切跡。
本城と出城の間の堀切。 
 出城西端の曲輪。
同曲輪の土塁。 
 出城2条目の堀切。
同堀切を出城2番目の曲輪側から。 
 出城中間(2番目)の曲輪。
同曲輪東端の四阿と土塁。 
 東端の曲輪(主郭)の堀切。
主郭のようす。 
 主郭北辺の虎口状開口部。


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