<沿革>
大島城は、大島氏によって築かれたと考えられるが、築城時期や創建時の規模などに
ついては明らかでない。現地の説明板によれば、大島氏は源為基にはじまる伊那の豪族
片切氏の支族で、平安末期に大島郷を分知された片切為行の八男八郎宗綱を祖とすると
される。
弘治二年(1556)、伊那・木曽地方は武田晴信(後の信玄)によって制圧されたが、この
ときの大島氏の動向については、不明である。元亀二年(1571)、信玄は飯田城代秋山
虎繁に大島城の改修を命じた。これは、大島城が伊那谷経営のためだけではなく、東海
地方進出のための拠点として重要視されたためと考えられている。改修後、時期は不明で
あるが、日向大和守虎頭が大島城を預かっていたといわれる。
信玄が死去し、天正三年(1575)の長篠の戦いで武田軍が織田・徳川連合軍に敗れると、
武田氏は次第に守勢に回らざるを得なくなった。これに伴い、大島城も進出拠点から伊那
の防衛拠点へと役目を転じていった。同九年(1581)、高遠城主武田信廉が大島城の守将
として送られた。同時に、大島城の防衛能力を強化させる改修が施されたものと考えられる。
翌天正十年(1582)二月に織田軍の武田領侵攻が開始されると、織田信忠率いる3万余
(5万とも)の大軍は二月十四日(十八日とも)に、大島城南方の前衛拠点である飯田城を
落とした。十六日には、織田方に寝返った木曽義昌らの別働隊が木曽谷入口の鳥居峠を
突破し、伊那谷は南北から織田軍に挟撃される格好となった。これにより、信廉らは一戦も
交えず夜陰に紛れて大島城から撤退した。
まもなく武田氏が滅亡すると、伊那は織田家臣毛利秀頼に与えられたが、大島城の処遇
については不明である。武田氏時代に大島城と並ぶ伊那の拠点であった高遠城や飯田城
がその後も明確に存続しているのに対し、大島城は文献から一切姿を消していることから、
武田氏滅亡とともに大島城は廃城となったものと考えられる。
<手記>
大島城は大きな戦闘は経験したことの無い城ですが、武田氏流築城のお手本ともいえる
城の1つです。その一番の見どころは、大手にある馬出の二重の三日月堀でしょう。間に
土塁を設けて二重とした大規模な半円の堀が、訪れてまず初めに目に飛び込んできます。
このほかに、連郭式に連なる曲輪間に深く穿たれた空堀や、郭間を結ぶ土橋など見るべき
遺構は豊富です。
城跡自体は台城公園となっていて、藤やツツジなどさまざまな観葉植物が植えられた、
周辺住民の憩いの場となっています。春にはいろいろな花を楽しむことができるのでしょう
が、公園として見ても少々荒れているのが気になりました。できれば樹木まで整理して、
飯田方面の眺望を開いて欲しいところですが、せめて下草くらい定期的に刈っていただき
たいものです。
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