太尾山城(ふとおやま) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 米原氏か | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀 | |
交通 : JR東海道本線米原駅徒歩15分 | |
<沿革> 太尾山城の原初のものは、在地領主の米原氏によって築かれたとされる。築城時期や 規模などは不明だが、明徳二年(1391)の明徳の乱では米原平五が、応仁元年(1467) の応仁の乱の際には米原平内四郎が城主であったと伝えられる。平五や平内四郎という 名乗りから米原氏は平姓とも考えられるが、出自についても定かでない。ちなみに、地名 は「まいばら」だが、米原氏は「よねはら」と読む。 文明三年(1471)、美濃の斎藤妙春が近江に侵攻した際、「米原山」で合戦が行われた とされているが、これは太尾山を指すものと考えられている。同合戦で、岩脇駿河守近俊 と「家子郎等数多」が討死した。『日本城郭大系』や『探訪ブックス 日本の城』では、この 近俊が太尾山城城主を務めていて、彼の戦死により、その子である道秀が城主を継いだ としている。 天文七年(1538)に南近江の六角定頼が北近江に侵攻した際には、六角陣営の永田 伊豆守らが「太尾」に着陣した。太尾山城は、このとき六角氏の手中に帰したものと思わ れる。以後、六角氏と浅井氏の境目の城として重きを成すことになった。 天文二十一年(1552)、北近江の京極高広は太尾山城攻略を岩脇氏と今井氏に命じた。 しかし、守将の佐治太郎左衛門尉により、今井勢は追い返された。 永禄四年(1561)、浅井氏に属した今井定清は、浅井長政の命を受けて六角氏の武将 吉田安芸守が篭る太尾山城に夜襲をかけた。城は落ちたが、定清は敵と誤認した味方の 槍に背後から刺されて戦死した。長政は、中嶋宗左衛門直頼を城将として入城させた。 長政が織田信長と対立すると、太尾山城は再び前線の城となった。元亀二年(1571)、 同じく最前線であった佐和山城が開城すると、宗左衛門も城を捨て撤退した。これにより、 太尾山城は廃城になったものと考えられている。 <手記> 太尾山城は、新幹線の停車場もある米原駅のすぐ東側の山の峰に築かれた城です。 眼下に包み込むように、北国街道米原宿の旧市街があります。 太尾山の峰は、東西の山肌は険しいものの、山頂の稜線は細く緩やかに南北に伸びて います。太尾山城はこの稜線のうち、中央の最長部(北城)と南の峰(南城)を利用した、 いわゆる「別城一郭」の城です。別城一郭と書くと、2つの城がお互いに補完しあっている ように見えますが、両城とも入口を深い堀切で穿ち、連絡通路は緩やかで長い要害性の ない道なので、両者はほとんど別の城のように独立して機能していたのではないかと感じ ました。 城へのルートは湯谷神社の脇からと、青岸寺の裏から登るものの2本があります。湯谷 神社からの方が、おそらく当時は木戸が設けられていたであろう岩塊のせり出す濱田口 を通り、南城の堀切へ至る自然な登城路なので、行きはこちらからがおすすめです。 近年発掘調査が行われたことから、遺構はわりと明確に見受けられます。特徴としては、 比較的高度な縄張りをもっていることと、周囲をすべて土塁で固めた曲輪がなく、どこか 一辺は必ず開いていることが挙げられます。係争の舞台となった境目の城ということから、 先端の技術が取り入れらたのだと考えられます。 |
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太尾山城遠望。 右の裾が削られた峰が南城、中央左が北城。 |
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南城の入城口。 | |
南城の堀切。 | |
南城の主郭のようす。 東側(右手)に土塁が設けられているのに対し、西側(左手)には土塁がない。 |
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北城の主郭のようす。 | |
北城の主郭下の曲輪。 |