二日町城(ふつかまち)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 東益之
 遺構  : 曲輪、堀、土塁
 交通  : 長良川鉄道美濃白鳥駅徒歩40分


       <沿革>
           15世紀前半ごろに、篠脇城主東益之によって北の鷲見氏に備える目的で築かれたとされる。
          城主には、次男の安東遠江守氏世が据えられた。氏世は赤松伊予守に殺害された将軍近侍
          の安東某の養子となり、幕府の申次衆を務めたとされる。
           氏世の兄氏数は、応仁二年(1468)に美濃の斎藤妙椿によって篠脇城を攻め落とされ、当時
          幕命で関東へ下向していた氏世の弟常縁が、和歌を詠じて妙椿から城を返還された。この間の
          氏世および二日町城の動静は定かでなく、またその後の城と安東氏についても不明である。


       <手記>
           二日町城は、比高130mほどの小山の上に築かれています。城域のすぐ裏まで林道が伸びて
          いるので、登るのは労ないのですが、車の場合は駐車スペースを見つけるのが大変です。私は
          長良川鉄道と長良川の間の水田地帯でギリギリ1台分くらいの空きスペースを見つけました。
           林道から城山へもう一息という入口にも石碑があり、城内は誰が整備したのかベンチまで用意
          されています。背後尾根には二重の堀切があり、その上部の腰曲輪には土塁も認められます。
          尾根の北側斜面にはもう1条竪堀があり、それを抜けるとはや山頂部です。頂部はほとんど1枚
          の平場なのですが、現地の説明に従えば西端が西曲輪で中央が主郭、東側が二の曲輪という
          ことになっています。二の曲輪東下には腰曲輪が付属し、その斜面には「人柱の桧」と呼ばれる
          一対のヒノキが生えています。言い伝えでは、益之が高石垣を築こうとしたがうまくいかず、人柱
          を立てることでようやく落成したとされています。とはいえ、城に石垣を設ける文化が益之の時代
          にあったとは思えず、信憑性はかなり低いといわざるを得ないでしょう。
           全体的に見ると、小規模ながらコンパクトによくまとまった城と評価できます。二日町は鷲見氏
          だけでなく対朝倉氏の防衛拠点でもあったはずなので、あるいは戦国時代末期の遠藤氏時代
          まで存続したものと考えられます。

           
 二日町城跡遠望。
背後林道沿いの登城口。 
 登城口から城山を見上げる。
二重堀切の1条目。 
 同じく2条目。
二重堀切上の土塁を伴った腰曲輪。 
 尾根北側斜面にあるもう1条の竪堀。
山頂のようす。 
現地説明によれば手前が西曲輪で奥が主郭。 
 現地説明にいう主郭。
同じく二の曲輪を望む。 
右奥にカモシカちゃんがいます。 
 二の曲輪。
二の曲輪東下の腰曲輪。 
 人柱の桧。
城内からの眺望。 


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