岩略寺城(がんりゃくじ)
 別称  : 長沢山城、長沢城
 分類  : 山城
 築城者: 関口氏か
 遺構  : 曲輪、土塁、堀、虎口、井戸
 交通  : 名鉄名古屋線名電長沢駅徒歩20分


       <沿革>
           今川氏庶流の関口氏によって築かれたといわれるが、築城の経緯は定かでない。関口氏は、
          鎌倉時代中期の今川氏初代今川国氏の次男常氏が、三河国宝飯郡長沢村関口に移り住んだ
          ことにはじまるとされる。
           長禄二年(1458)、岩津城主松平信光が関口満興の岩略寺城を攻め落とし、十一男の親則を
          入れたとされる。親則は山麓の長沢城を居城とし、長沢松平家を興した。『長沢松平家譜』には
          このときに親則が長沢に城を築いたとあり、これを岩略寺城のこととして築城年とする説もある。
          ただし、長沢松平家成立以降、「長沢城」が岩略寺城と山麓の長沢城のどちらを指すのか常に
          はっきりしないため、岩略寺城の来歴についてはなお不明な点が多い。
           16世紀になって駿河の今川氏の勢力が伸長すると、長沢松平家もその傘下に入った。天文
          二十年(1551)に、今川義元が匂坂長能に「長沢城」の在番と普請を命じたが、長沢松平家が
          滅んでいない以上、この長沢城は岩略寺城を指すものと考えられる。
           永禄三年(1560)、桶狭間の戦いで義元が討ち死にし、松平元康(徳川家康)が自立すると、
          岩略寺城も同年中に攻略された。このとき城を守っていたのは、今川方の城将、糟谷善兵衛・
          小原藤五郎らであったとされる。
           その後の岩略寺城の動向については定かでない。『家忠日記』によれば、天正十四年(1586)
          に「長沢普請」があったとされ、小牧・長久手の戦いに臨んで岩略寺城が改修されたとする説も
          ある。廃城時期についても不明である。


       <手記>
           岩略寺城は、旧東海道が東西三河の境の隘路に差しかかる位置にそびえる山城です。北西
          麓から最後尾の堀切まで林道が伸びていて、駐車スペースも充分あります。麓の林道入口に
          猪除けのフェンスとゲートがありますが、出入りの際に手動で開閉すればOKです。私が訪ねた
          ときはちょうどゲート手前で工事を行っていて、その作業員の方が普通に出入りしているので
          自分で開け閉めして大丈夫だと教えてくださいました。
           とても規模が大きく、かつ手の込んだ城で、長沢松平家の所有ではなく、最終的には徳川氏
          の直轄として改修されたことは明白です。とくに、三日月堀や大きく切れ込んだ虎口、山頂の
          主郭部をさらに土塁で方形に囲繞しているあたりは、徳川家の築城術の特徴と思われます。
           岩略寺城については、論点が3つあるように思われます。1つは、城内に井戸がやたらと多い
          ことです。主郭とその1段下だけでも、4か所の井戸様の掘り込みがみられます。籠城の備えと
          いえなくもありませんが、4か所のうち2か所は櫓台状の土塁の上にあり、さらにそのうち1つは
          本丸最高所ということもあり、ただの水利用ではないようにも思えます。ただ、この点はナゾと
          しかいいようがありません。
           2点目は、大手口はどこかという点です。岩略寺城は、頂上部から北・東・南と3本の尾根が
          派生していて、北と東には明確な虎口があり、南尾根にはそれがありません。その代わりに、
          南尾根で最も広い曲輪の下方に、大きな堀切が穿たれています。『愛知の山城 ベスト50を
          歩く』では、旧来は北尾根の虎口が大手とみられていたが、浅野文庫蔵『諸国古城之図』に
          南尾根の堀切を通り、東尾根の虎口に至るルートが描かれているとして、南尾根を大手口と
          する説を呈しています。
           個人的にも、東尾根の虎口が大手ではないかなというのは感じました。というのも、東尾根
          の虎口では道がクランク状にわざわざ折られており、北尾根よりも守りが厳重に思われます。
          他方、南尾根の堀切は虎口を形成しておらず、そこから東尾根まで真横にスライドするのは
          かなりの遠回りです。そのようにルートを設定したところで、平時にはただの時間の無駄です
          し、戦時には敵がわざわざそのような遠回りに付き合ってくれるとは思えません。『古城之図』
          を見ていないので何とも言えませんが、私見としては、現実的ではないのではないかと考え
          ています。
           そして3点目は、築城の経緯についてです。関口氏の由来は、峠越えの関所の口にあった
          からといわれ、その本貫は少し北西に行った登屋ヶ根城とされています。時代的にも関口氏
          が入植したころに岩略寺城のような高所の城が入用だったとは思えません。おそらく、偶然
          にも東から宗家の今川家が勢力を伸ばし、16世紀初頭にその勢力下に入って以降、今川氏
          によって築かれ、関口氏が城将を務めたものと考えられます。
           さらに想像をたくましくすれば、初期の松平氏はあまり高所に城を設けない傾向があること
          から、長沢松平家が成立した時点で岩略寺城はいったん廃城となり、のちに再び今川氏の
          支配下となるに及んで、再び今川家直轄の拠点城として取り立てられた、とするシナリオも
          考えられるのではないかと思われます。

           
 北麓から岩略寺城を望む。
曲輪に挟まれた堀切。 
城の最後部へと続く搦手口か。 
 同堀切脇の竪堀。
最後部の曲輪(南曲輪)。 
 三日月堀。
三日月堀脇の竪堀。 
 三日月堀のある曲輪の
 大きく切れ込んだ虎口。
主郭下の腰曲輪。 
 腰曲輪北端にある、
 櫓台状の土塁上の井戸跡。
本曲輪。 
 本曲輪の土塁。
同土塁外側のテラス状の曲輪。 
 本曲輪南西隅の櫓台状土塁。
本曲輪東辺の虎口跡。 
 同虎口脇の切れ込み地形。
 用途は不明です。
同虎口を下から見上げる。 
本曲輪へ最も登りにくい地点に虎口が開いています。 
 東曲輪(『愛知の山城』ではU曲輪)。
東尾根で最大の曲輪。 
 その1段下にある、土塁で囲まれた曲輪。
東尾根のクランク状の虎口。 
大手口か。 
 クランク状虎口の脇にある竪堀。
北尾根の虎口。 


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