岩津城(いわづ)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 松平泰親か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、虎口、土橋
 交通  : J名鉄東岡崎駅よりバスに乗り、
      「岩津団地」下車徒歩10分


       <沿革>
           徳川氏の祖にあたる松平親氏の子ないし弟とされる泰親は、14世紀前葉に山間部の
          松平郷から平野部の岩津郷へ進出し、岩津城を築いたとされる。『三河物語』によれば、
          泰親は岩津城の岩津(中根)大膳を攻め滅ぼし、城を奪ったとされる。これが正しければ、
          岩津城は松平氏進出以前からあったことになる。ただし、岩津大膳の存在や城の奪取
          を裏付ける証拠はない。近年では、岩津郷の獲得は買収など平和的な手段によるもの
          との見方も有力視されている。
           また、応永二十八年(1421)の若一神社の棟札写しに「大檀那松平用金」とあり、これ
          が泰親の戒名「祐金」と同一とする説もある。この場合、遅くとも同年までに、岩津城が
          築かれていた可能性が高いことになる。ただし、親氏・泰親2代については一次史料で
          存在が確認できず、そもそも両者の実在を疑う向きもある。
           いずれにせよ、岩津への進出が松平氏飛躍の契機となったことは間違いない。泰親
          ないし親氏の子信光は、庶兄とされる信広が松平郷を継承したのに対し、岩津松平家
          を興した。室町幕府政所執事の伊勢貞親に仕え、応仁の乱に際して幕命や守護の命
          を受けて転戦し、多くの子を分家させて勢力を拡大した。
           岩津松平氏は信光の三男親忠が継ぎ、親忠は安祥城へ移って安祥松平家を興した。
          岩津城は親忠の長男親長が継いだため、岩津松平家が引き続き宗家であったとする
          説もあるが、親忠自身が安祥へ本拠を移しているため実情は定かでない。
           永正三年(1506)、駿河守護今川氏親の名代として伊勢盛時(北条早雲)の軍勢が
          三河へ侵攻し、岩津城を攻撃した。「岩津殿」が迎え撃ったものの、落城したとされる。
          この「岩津殿」が親長か否かは判然としない。討ち死にしたとも、生きながらえたとも、
          さらには当時信光と同じ幕臣であり、在京していたためそもそも参戦していなかったと
          する説もある。はっきりしているのは、岩津落城の直後に親長の弟の安祥松平長親が
          井田野で寡兵をもって今川勢を破り、安祥松平家の勇名が轟いた一方、岩津松平家
          がほとんど没落したことである。また、この戦いの発生年については異説もある。
           まもなく岩津松平家は滅亡したとされているが、その時期や経緯も定かではない。
          天文十一年(1542)には、岩津松平家の所領が合歓木松平信孝によって横領されて
          いる。したがって、遅くともこのときまでには滅んでいたものと推測される。信孝は宗家
          に反旗を翻して同十七年(1548)に討ち死にしたが、その後の岩津城の扱いについて
          も詳らかでない。
           元亀二年(1571)、武田氏が岩津城に攻め寄せたともいわれるが、真偽も含め経緯
          は明らかでない。その後の岩津城についても不明である。


       <手記>
           岩津城は西方に矢作川を望む緩やかな丘の上にあります。東名高速道路を挟んだ
          東側に鎮座する岩津八幡宮は、もともと城山にあったものを、築城に際し移したと伝え
          られています。そのため、築城以前からある程度発展していた土地と推測されますが、
          城山自体はそれほど要害の地形とは言えません。
           下調べで諸サイトを拝見したところ、藪がひどく高速陸橋の付け根の登城路は通行
          できなくなっているとあり、いくらか藪漕ぎを覚悟していました。ですが、ダメ元で橋の
          たもとへ行ってみたところ、分かりやすくきれいな通路ができていました。城山の内部
          も伐採作業が続いているようで、竹を組んだトロッコの線路が敷かれ、開放的な空間
          となっていました。主郭には手製のパンフレットまで用意され、地元の保存会の活動
          により、城好き以外の人でも楽しめるほどに整備されています。
           大きな曲輪としては主郭とその南の副郭が残っています。その南にも曲輪が続いて
          いたようですが、こちらは宅地化されていて旧状を推測するのはやや困難です。主郭
          と副郭の間に、馬出とも武者隠しともとれる小区画があるのが特徴で、明らかに家康
          の時代の改修を受けています。主郭の西の帯曲輪には升形の虎口跡が認められ、
          その先には三河領内の徳川氏の城に特徴的な、竪土塁を伴う巨大な竪堀が残って
          います。この竪堀は馬出と並ぶ見どころですが、私が訪れたときはまだ伐採作業が
          始まっておらず、今後さらに見やすくなることが期待されます。
           このように、岩津城は家康期の改修を受けていることは間違いありませんが、その
          ころに実戦を経験したかは留保が必要と思われます。元亀二年に武田氏が攻めたと
          されていますが、当時の武田氏は足助城までは進出していたとされるものの、そこ
          から岩津まで直進するのはさすがに無理があるといえます。そもそも、岩津城が抜か
          れると岡崎城までほとんど障害がない状態になってしまうため、もしそのような事態
          になっていたら、三方ヶ原に敵が迫ったのと同じくらいのインパクトといえるでしょう。
          史料にもそれなりの記述が残ってしかるべきと思われるため、やはり武田勢による
          岩津城攻撃については眉唾ものと感じます。
           いずれにせよ、松平氏勇躍の橋頭堡となった城ですから、訪れやすくなったのは
          素晴らしいことですし、これを機に認知度も高まってくれればと思います。

           
 東名高速越しに岩津城跡を望む。
主郭の城址碑。 
 主郭のようす。
主郭の虎口。 
 主郭の空堀。
主郭土橋前の馬出し状の曲輪。 
 副郭のようす。
副郭と馬出し状曲輪の間の虎口。 
 副郭の空堀と土塁。
馬出し状曲輪の虎口。 
 主郭西下の帯曲輪の升形状虎口。
竪土塁を伴った大竪堀。 


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