長沢城(ながさわ)
付 観音堂砦
 別称  : 桜ヶ城、長沢古城
 分類  : 平山城
 築城者: 松平親則か
 遺構  : 土塁、曲輪跡か
 交通  : 名鉄名古屋本線名電長沢駅徒歩3分


       <沿革>
           長禄二年(1458)、岩津城主松平信光が関口満興の岩略寺城を攻め落とし、十一男の親則を
          長沢松平家として分家させたとされる。親則は新たに長沢城を築いて居城とした。一方、満興の
          弟に長沢直幸があり、長沢城な直幸の居城だったともいわれる。
           永禄三年(1560)の桶狭間の戦いで7代政忠が討ち死にすると、その子康忠が若くして跡を
          継ぎ、独立した松平元康(徳川家康)に従った。康忠の母は松平清康の娘で、正室は松平広忠
          の娘であることから、康忠は家康の従弟であり、義弟でもある。天正十八年(1590)に家康が
          関東へ移封となると、康忠の子康直は深谷城1万石を与えられた。長沢城はこのときに廃城と
          なったとみられる。


       <手記>
           長沢城跡は、名電長沢駅南東の古城団地となっています。上の地図の緑点で示した角地に
          城址標柱があります。団地内の民家の庭先にももう1つ城址碑があるらしいのですが、どこか
          わからず人影も見えなかったので、団地内をうろつくのは早々に諦めました。『今昔マップ』に
          よると、南に突き出た細峰を利用した城だったようです。
           国道1号線を挟んだ南側の観音堂には観音堂砦が置かれ、長沢城の出城だったとされて
          います。ただ、国道に分断される前は同じ峰にあり、出城というより峰先の出丸であったものと
          みられることから、ここでは同じ長沢城の項にまとめました。
           観音堂には、本城では失われた遺構を目にすることができます。境内自体も曲輪跡と思われ
          ますが、その南辺には人工の傾斜が認められ、土塁ないし切岸跡と見受けられます。その下
          には「長沢の三尊種子板碑」があり、ここも帯曲輪だった可能性があります。
           観音堂南東麓の長沢小学校(長沢御殿跡)南側道路沿いには、長沢城についての説明板が
          設置されています。なお、城址標柱と観音堂はすぐ真向かいですが、国道1号線には中央分離
          帯があるため、車でも徒歩でも真っすぐは行けないので注意してください。

           
 長沢城跡標柱。
標柱付近から観音堂(左手)を望む。 
右手奥の山は岩略寺城。 
 観音堂。
板碑付近のようす。 
土塁と曲輪跡か。 
 同じく観音堂南面。土塁跡か。
長沢小学校道路沿いの説明板。 


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