| シュロスベルク(Schlossberg) 付 グラーツ(Graz) |
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| 別称 : シュロスベルク城、グラーツ城 | |
| 分類 : 山城(Höhenburg) | |
| 築城者: 不明 | |
| 交通 : バーデン駅から徒歩30分 | |
| 地図 :(Google マップ) | |
<沿革> グラーツの都市名はスラブ語(スロベニア語)で城砦を意味するグラデツ(Gradec)に由来すると され、スラブ人は6世紀ごろにシュタイアーマルクへ流入したといわれる。シュロスベルクに城館が いつごろ築かれたのかは明らかでなく、1140年にウダルリヒ・フォン・グラーツの名が現れるのが 史料上の初出とされる。13世紀前半には山麓の市街地が城壁で囲われ、同後半にはシュロス ベルクに聖トマス礼拝堂が建設された。 1379年、オーストリア公アルブレヒト3世とその弟レオポルト3世の間でノイベルク条約が結ばれ、 ハプスブルク家が2流に分裂すると、グラーツにはシュタイアーマルク公国を継承した後者の居城 が置かれた。レオポルト3世の孫のフリードリヒ5世は、御し易いという理由から神聖ローマ皇帝に 選出され、フリードリヒ3世を称した。フリードリヒ3世は凡庸であったが長命かつ悪運が強く、後に 婚姻政策で隆盛を極めるハプスブルク帝国の礎を築いたとされる。その治世下の1466~1486年 には、オスマン・トルコの脅威の高まりを受けてシュロスベルクの防備が強化され、麓の宮殿との 間は隠し通路で結ばれた。 第一次ウィーン包囲後の1532年、スレイマン1世率いるトルコ軍が再び襲来し、グラーツ郊外で 戦闘があったが、城と都市への攻撃は行われなかった。しかし、シュロスベルクとグラーツの城塞 は攻城技術の進歩に対応できなくなっていたため、1543年に開始された工事で近代的なものへ と一新された。主塔は取り壊されて稜堡が築かれ、また今日も残る深さ94mの井戸(トルコ井戸) が4年をかけて掘削されたとされる。1588年にはグラーツのシンボルとなっている時計塔が建造 され、全体の工事が完了するには、なおも1608年まで待たなければならなかった。 1809年5月、グラーツはナポレオン率いる軍に攻囲された。このとき、ヨハン大公率いる1万7千 の軍勢は態勢立て直しのためハンガリーへの撤退を決断しており、シュロスベルクにはフランツ・ クサーヴァー・ハッカーを守備隊長とするわずか900ほどの将兵が残された。フランス軍の司令官 グルーシーが降伏を勧告すると、ハッカーはグラーツの街の無血開城には応じたものの、シュロス ベルクの占領継続を主張し、グルーシーもこれを承諾した。 6月1日、街の占拠を完了したフランス軍は5千の兵をグラーツに残して東進を開始した。同13日、 グラーツ残留部隊はシュロスベルクへの砲撃を開始したが、山上の要塞にはほとんど打撃を与え られなかった。砲撃は同20日まで続いたが、南からオーストリアの援軍が近付いてきていたため、 フランス軍は翌21日に南進してこれに対応した。ハッカーはこの機にグラーツの街を奪還し、市民 の支援のもと食料と弾薬を補給した。 しかし、オーストリアの援軍を率いるギュライ伯はフランス軍を積極的に攻撃せず、日和見的な 態度を取り続けた。この間にフランス軍は1万を超える増援を受けてオーストリア軍に対して優位 となり、これを見たギュライ伯はグラーツを見捨てて撤退した。フランス軍は再びグラーツ攻略へと 舵を切り、同月27日にグラーツの街を再占領した。 ハッカーはその後もシュロスベルクを固守したが、7月に入ってオーストリアがヴァグラムの戦い に敗れ、同月12日に休戦協定が結ばれると、シュロスベルクの引き渡しも決定された。それでも なおハッカーは籠城を続けていたが、同22日にヨハン大公の書簡が届けられるに及んで、ついに 開城した。戦後、粘り強くシュロスベルクを守り抜いた功績により、ハッカーはマリア・テレジア軍事 勲章を与えられたうえ、フライヘル(男爵)に叙された。 逆に、要衝を攻めきれなかったナポレオンの怒りは凄まじく、10月に調印されたシェーンブルン 条約にはシュロスベルクの要塞の破壊が盛り込まれている。ここに、城砦としてのシュロスベルク の歴史は幕を閉じたが、グラーツ市民は大金を投じて時計塔と鐘楼を買い戻した。 <手記> グラーツはオーストリア南東部に位置する、同国第2の都市です。といっても人口は30万人弱だ そうで、大都市という感じはありません。盆地の中央をムール川が流れ、川沿いの独立丘である シュロスベルクには、日本にあったとしても間違いなく拠点城が築かれたことでしょう。 西麓からケーブルカーで上がれますが、比高120mほどなので歩いて登っても手頃なハイキング です。たいていの人の目的地は時計塔で、稜堡の上に建っている小さな尖塔は、実戦の歴史を もっているとは思えないほどメルヘンで象徴的です。有料で上がれるようですが、入らずとも塔の 周辺からグラーツ市街を見渡せます。 山頂方面へ進むと、雄々しい主郭稜堡の石塁の下に、上述の深さ94mのトルコ井戸があります。 ヨーロッパでは深さ100mを超えるような井戸も少なくなく、山上で水を得るのが日本よりも相当に 困難だったのでしょう。井戸の脇には堀切があり、かつては渡櫓が上がっていたようです。その 先は出丸で、今は四阿が建っており、ここからは時計塔も含めた市街の眺望が楽しめます。 山上の主郭は2段に削平されており、城兵の十分な駐留スペースが確保されています。下段に もう一つ買い戻された鐘楼が建ち、その脇には聖トマス礼拝堂の基部が残っていました。礼拝堂 (チャペル)というだけあってとても小規模で、中世城館のころの様子を今に伝える貴重な遺構と なっています。 主郭上段には地下兵営に繋がる門跡や、ハッカーを讃えた「ハッカーレーヴェ」というライオンの 像のレプリカがあります。レプリカというのは、日本と同じく戦時中に金属として供出されたからだ そうです。 グラーツの街の防御設備は、多くは残っていませんが、シュロスベルクの東麓にパウスル門が 建っています。そこから旧城壁に沿って芝生の公園が広がっており、堀跡を利用したものと推察 されます。旧市街の東辺に稜堡のラインは見て取れますが、城壁や石塁が残っている箇所はごく わずかです。その東辺沿いにはグラーツ城の宮殿や大聖堂もあるのですが、なぜかあまり写真 映えする感じではなく看過してしまいました。今思うともったいないですが、このときは風邪気味で 市内観光もなおざりでした。ちなみに、風邪自体はゲスティング城やタール城を歩いて、旧市街で 地ビールを飲んでたら治りました笑 |
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| 時計塔。 | |
| 時計塔下の稜堡。 | |
| 出丸の四阿。 | |
| 出丸から時計塔およびグラーツ市街の眺望。 | |
| 出丸背後の堀切。 | |
| 主郭南端の稜堡石塁とその下のトルコ井戸。 | |
| 深さ94mあるトルコ井戸。 | |
| 堀切越しに主郭稜堡石塁を望む。 | |
| 主郭下段のようす。 | |
| 主郭上段の石塁。 | |
| 鐘楼。 | |
| 鐘楼脇の聖トマス礼拝堂跡。 | |
| 主郭上段のようす。 | |
| 主郭上段の側面。 | |
| 主郭北西隅のゴシック門。 | |
| パウスル門。 | |
| パウスル門脇の稜堡とシュロスベルク。 | |
| 城壁外の公園。堀跡か。 | |
| 稜堡角の跡。 | |
| グラーツ旧市街城壁の残存箇所。 | |
| 同上。 | |
| 同上。 | |
| 公園化された稜堡跡。 | |
| グラーツ市庁舎。 | |
| グラーツの目抜き通り。 | |