須賀城(すか)
 別称  : 須加城
 分類  : 平山城
 築城者: 須賀氏
 遺構  : 切岸か
 交通  : 秩父鉄道武州荒木駅からバスに乗り、
       「須加公民館前」下車


       <沿革>
           在地領主須賀氏の居城である。須賀氏の出自は詳らかでなく、承久三年(1221)の
          承久の乱に際し、宇治橋合戦の参加者の1人として、『吾妻鏡』に須賀弥太郎の名が
          見られるのが初出とされる。
           永享十二年(1440)、永享の乱で自害した鎌倉公方足利持氏の奉行人一色伊予守
          六郎が下野国から南下して、須賀土佐入道の籠もる須賀城を一夜で攻め落としたと
          される。したがってこのときまでには、、須賀城が築かれていたことになる。一色氏は
          同年の結城合戦に結城氏側で参戦し、翌嘉吉元年(1441)に敗死していることから、
          須賀氏はほどなく須賀城に復帰したものと思われる。
           康正元年(1455)または大永三年(1523)、古河公方と山内上杉氏の間で須賀合戦
          が行われ、康正の場合は横瀬貞国が、大永であれば横瀬景繁が戦死したとされる。
          須賀氏は上杉方であったとみられるが、須賀城で戦闘があったのかなど詳細は不明
          である。
           現地の碑文によれば、忍城主成田氏に臣従していた須賀修理大夫が、天文後半の
          1550年ごろに館を築いたことが、『成田記』に記されているとある。天正十八年(1590)
          の小田原の役に際して、成田家臣須賀修理亮は忍城に詰めており、須賀城は豊臣方
          に接収されたものとみられる。
           役後に成田氏が除封されると、須賀城も廃城となったものと思われる。
          

       <手記>
           利根川堤防沿いの須加小学校から長光寺にかけてが城跡とされています。小学校
          は小さな独立丘となっていて、これを利用した土豪の城であったものと推測されます。
          須加の南には水田が広がり、「須(洲」)」の字のとおり、当時は周囲を利根川水系に
          囲まれた中洲のような地形だったのでしょう。
           明確な遺構はありませんが、小学校南辺の斜面は切岸状に人の手が入れられて
          おり、かつてのままとすれば城由来の可能性も考えられます。東麓の長光寺は館跡
          と伝えられていて、その門前にあたる県道沿いのバス停脇に、足元サイズの控えめ
          な城址碑が建てられています。


           
 長光寺門前の須加城址碑。
須加小学校南辺のようす。 
 
 小学校南辺の切岸状地形。
長光寺。 


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