忍城(おし)
 別称  : 亀城
 分類  : 平城
 築城者: 成田氏
 遺構  : 土塁、城門、堀
 交通  : 秩父鉄道行田市駅徒歩15分


       <沿革>
           従前の通説によれば、延徳元年(1489)に成田親泰が忍氏を攻め滅ぼし、翌二年
          (1490)に忍氏の館跡の北西に新たに忍城を築いたとされる。ただし、近年成田氏の
          事蹟が1代ずつずれているとの説が出されており、これにしたがうなら忍氏を攻めた
          のは親泰の父顕泰ということになる。また、『文明明応年間関東禅林詩文等抄録』
          所収の「自耕斎詩軸并序」には、「岩付左衛門丞顕泰公父故金吾 法諱正等(中略)
          築一城」とあり、この岩付顕泰を成田顕泰に比定する説も有力視されている。この説
          によれば、文明十年(1478)時点で忍城はすでに存在しており、顕泰の父(養父)と
          される成田自耕斎正等が築城主である可能性が指摘されている。
           『成田系図』によれば、顕泰の父の諱は資員とされる。資員の父家時は山内上杉
          氏のもとで頭角を現し、成田氏の中興の祖と呼ばれる。成田氏の勢力拡大に伴って
          忍城が築かれたとすれば、可能性としてはこの家時までさかのぼることも可能と考え
          られる。いずれにせよ、年代は不確かながら、成田氏が忍氏を滅ぼして忍城を築き、
          それまでの累代の居館(熊谷市上之)から移ったという順序は一致している。
           天文十五年(1546)の河越夜戦で、山内上杉氏・古河公方足利氏が北条氏康に
          大敗し、扇谷上杉氏が滅亡すると、親泰の子長泰は北条氏に鞍替えした。ただし、
          成田氏の立場は独自性を保った日和見的なものであったため、同二十二年(1553)
          には氏康に忍城を攻められたとされる(落城はしていない)。
           永禄三年(1560)に越後の長尾景虎が山内上杉憲政を擁して関東へ出陣すると、
          長泰は当初は抵抗の意思を示したものの、景虎自ら城攻めに出張ると屈服した。
          翌四年(1561)に景虎が上杉政虎と名を改めて帰国すると、まもなく成田氏は他の
          関東諸将と同じく再び北条氏に従った。
           永禄六年(1563)、松山城を救援するため関東入りした輝虎(政虎から改名)は、
          忍城を攻めて再度降伏させ、長泰は子の氏長に家督を譲った。同九年(1566)に
          輝虎が臼井城攻略に失敗すると、成田氏はじめ多くの関東諸将がまたも北条氏に
          なびいた。
           天正二年(1574)、上杉氏の橋頭保である羽生城関宿城を救援するため越山
          した謙信(輝虎の入道名)が、忍城下に放火したものの、城はもちこたえた。羽生城
          は同年中に自焼し、北条氏によって成田氏の持ち城として与えられた。
           天正十八年(1590)の小田原の役に際し、城主氏長は小田原城に詰めたため、
          忍城は氏長の叔父(長泰の弟)泰季と、その子長親らが城代として守った。六月に
          入り、石田三成を指揮官とする豊臣勢の大軍が、2〜3千人程度が籠もる忍城を
          囲んだ。数日攻め立てたものの力攻めでは容易に落ちず、秀吉の指示により三成
          は水攻めに切り替えた。近隣の農民に米銭を与えて昼夜兼行で築堤工事を行い、
          わずか4〜5日で石田堤と呼ばれる堤防を築いた。しかし、直後の大雨によって堤は
          決壊し、豊臣方に数百名の死者を出した。その後、浅野長政・上杉景勝・前田利家
          らが援軍として加わったが、それでも城は落ちず、「忍の浮き城」の異名をとった。
          結局、七月五日の小田原城降伏まで耐え抜き、氏長の伝令によってようやく開城
          した。
           役後に徳川家康が北条氏の旧領に移封されると、深溝松平家忠が1万石で忍城
          に入った。文禄元年(1593)には、家康の四男忠吉が10万石で忍城主となった。
          慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの結果、忠吉は尾張52万石に加増され、忍城は
          代官預かりとなった。
           寛永十年(1633)、知恵伊豆で知られる大河内松平信綱が3万石で忍城に加増・
          転封となり、忍藩が成立した。信綱は島原の乱鎮定の功により同十六年(1639)に
          川越6万石に加増され、代わって阿部忠秋が5万石で入封した。忠秋の孫正武の
          ときに10万石まで加増され、この間に近世城郭としての体裁が整えられたと考え
          られている。
           9代正権のとき、阿部家は白河藩へ移封となり、代わって奥平松平忠堯が桑名藩
          から同石で忍に入った。松平家は4代を数えて明治維新を迎えた。


       <手記>
           映画『のぼうの城』などで一般にも知られ、実戦でも堅城ぶりが示されている名城
          ですが、残念ながら遺構はほとんど残っていません。天守風の三階櫓が建てられ、
          郷土博物館となっていますが、その場所は本丸ではなくその隣の諏訪曲輪南東隅
          で、堀や土塁のラインも実際の縄張りとはずれています。御三階櫓は天守の代用と
          して実際にありましたが、その場所は本丸からは離れた、現在の水城公園北西の
          天理教武行分教会付近です。
           水城公園の池も濠跡といえなくもないですが、当時は城全体が1つの沼に浮いて
          いるような姿だったということから、あくまで名残程度に過ぎません。遺構としては、
          本丸から国道を挟んだ北側の東照宮裏手に土塁が部分的に残っています。かつて
          この塁の上には鐘楼がありましたが、当時の鐘は郷土博物館に収められ、敷地内
          にわざわざ模擬の鐘楼が建てられています。あまりの惨状を撮ることに気を取られ
          すぎたのか、貴重な遺構であるこの諏訪曲輪土塁をなぜか写真に収めるのを忘れ
          てしまっていました…。
           さて、忍城と岩付城の縄張り図を見比べると、両者はよく似た選地にあることが
          わかります。どちらも成田氏が築いたというのは、大いにありうべきと思いますが、
          他方で順序については留保が必要なように思います。「自耕斎詩軸并序」の内容
          を信用するとして、顕泰が岩付氏を称しているところに、加えて「築一城」とあること
          から、すでに岩付城があって、新たに一城を築いたとみるのが妥当なように思われ
          ます。また、この一城が忍城であるかどうかも論題の1つでしょう。
           当時の成田氏の勢力を考えると、独力で岩付まで進出して城を築いたとはとても
          考えられません。主君である山内上杉氏の命の下で築城し、城主として預かって
          いたものと拝察されます。そこで上杉氏の信任を得た成田氏が、許可を得て忍氏を
          攻め滅ぼし、忍城を築いたとみた方が、岩付城成田氏築城説を採るなら自然なよう
          に思われます。
           ちなみに行田といえば、「うまい!うますぎる!」のローカルCMで有名な「十万石
          饅頭」を忘れてはいけませんね。奈良漬も特産品ということでとても美味しかったの
          ですが、B級グルメの「フライ」と「ゼリーフライ」は、ちょっと流行らないかな、という
          感想でした。


           
 模擬三階櫓と城門。
同じく三階櫓。 
 
 鐘楼。
本丸跡の石碑。 
 本丸に置かれた石材。
大手前の枡形跡。 


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