蜂城(はち)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 不詳
 遺構  : 曲輪、土塁、堀
 交通  : JR中央本線石和温泉駅よりバス
       「石くら橋ミニ公園前」バス停下車徒歩30分
       または中央自動車道「釈迦堂」高速バス亭下車徒歩40分       


       <沿革>
           蜂城について、明確に記した史料は今のところ見つかっていない。『勝山記』の永正十七年
          (1520)の記事には、「此年五月当国栗原殿大将トシテ 皆々屋形ヲサミシ奉テ 一家国人引
          玉フ 同六月八日東郡ノ内ミヤケ塚ニテ軍アリ 上意ノ足衆切勝テ 其日ニ栗原殿ノ城ヲマク」
          とある。戦のあった「ミヤケ塚」は、蜂城の北西麓にあるため(現在の一宮町本都塚・北都塚)、
          『日本城郭大系』では、この「栗原殿ノ城」が蜂城を指すものと考えている。この戦いは、武田
          信虎が反旗を翻した栗原伊豆守信友を攻めたものとされる。『大系』の推測が正しければ、
          「城ヲマク(「負く」の意か)」とあることから、蜂城は信虎によって落とされたものと考えられる。
           『甲斐国志』では、上記の『勝山記』の記述を岩崎館跡の項で引用している。このことから、
          『大系』では蜂城をもともとは岩崎氏の詰城ではないかとしている。岩崎氏は、武田氏の有力
          な支族であったが、15世紀半ばごろに没落したとみられている。

          
       <手記>
           中道自動車道釈迦堂PAの南に、標高738mの蜂城山がそびえています。北から県道34号
          を南下し、高速道路の下をくぐって京戸川を渡ったところに、蜂城山登山口と書かれた看板が
          あるので、そこから案内通りに東へ入っていきます。登山口の前あたりから、最近新しい道路
          が整備されたようで、蛇行した旧道が新道の脇にはみ出ている部分が駐車スペースとなって
          います。したがって、車で訪れるのが便利ですが、公共交通機関を使うのであれば、高速バス
          で釈迦堂PAで降りて、そこからハイキングするのも良いかと思います。
           蜂城山山頂には蜂城天神社があり、地元の方に手厚く祀られているようで登山道がしっかり
          整備されています。この城は、後述する通り特徴的な縄張りをもつ城ですので、まずは一目散
          に山頂を目指すべきだと思われます。
           天神社境内となっている山頂の主郭は、北半分に細長い帯曲輪が付属しています。本殿裏
          には土塁がありますが、城の遺構なのか神社のものなのかは判じかねます。主郭の背後には、
          2条の堀切跡があり、ここが城の最後部と思われます。『大系』には、主郭両脇に竪堀の存在
          を記しており、確かに大きくえぐれているのですが、一見した感じでは自然の崩落地形のように
          思われます。ただ、竪堀があったところがさらに崩落した可能性もあるでしょう。
           さて、主郭からの絶景を愉しんだ後、主郭から少し下ると、蜂城最大の見どころといえる延々
          たる帯曲輪群が続きます。山頂1つ手前の「蜂城山」標識の裏手あたりから、この帯曲輪群は
          はじまります。比較的緩やかで幅も広い斜面に、ヨーロッパのブドウ畑のように細い帯曲輪が
          累々と連なっており、数えるのも億劫になってきます。その下端は、おそらく中腹にある鳥居の
          あたりまでと思われます。途中には、左右の移動を妨げるためのものと思われる竪堀も見受け
          られます。ただ、これらの曲輪群をいちいち守ろうとしたら、相当な数の兵が必要となります。
          そのくせ、斜面自体は緩やかなので、あまり防御力が高いとはいいかねます。一体どのような
          防衛戦略に基づいて構築されたものなのか、なんとも判じがたいところです。
           中腹の鳥居からまた少し下ると、右手(東側)に「蜂城山ヤマボウシ」と書かれた看板があり
          ます。これを看板の方へ入っていくと、すぐにそのヤマボウシの古木があります。植樹林の間
          に1本だけ浮いたように佇んでおり、夏場には麓からも1本だけ葉の違う木があるのが分かる
          のだそうです。この木の下をくぐってさらに東にスライドすると、2条の竪堀とその奥に2段削平
          地があります。周辺は植樹管理林とうことで、2段削平地については林業に伴って近年作られ
          たものかもしれません。ただ、竪堀については、林業に必要なものとも思えないので、おそらく
          城の遺構と思われます。ここは、山頂からの緩やかな傾斜が終わり、急角度で落ち込む手前
          の「鼻」に当たるところで、城内の第一の砦となる出丸であったものと推測されます。
           さて、蜂城については「いつごろの」「誰の」城であったかが問題です。『大系』では、岩崎氏
          ないし栗原氏の詰城とみていますが、岩崎氏は戦国時代がはじまるころにはすでに没落して
          おり、栗原氏館からは少々離れているように感じられます。そもそも、蜂城を岩崎・栗原両氏
          に結び付ける『大系』の論拠は、あまりにも薄弱かつ飛躍的に過ぎます。
           そこで、逆に蜂城の特徴からその主を推測してみようと思います。すなわち、@帯曲輪群に
          象徴される城の規模の壮大さ、A堀切や竪堀を少なからず有していることから、一朝一夕に
          拵えられた城ではないこと、の2点が挙げられます。@からは、栗原氏にしろ岩崎氏にしろ、
          国人が単体で維持できるような城ではなかろうという点が指摘できます。また、Aからは蜂城
          が仮に最初は岩崎氏によって築かれたとしても、少なくとも甲斐国内が統一されていなかった
          16世紀前半くらいまでは、改修を重ねて拡張・使用され続けていたであろうことがいえます。
          そこで、個人的な見解としては、蜂城は15世紀末にはじまる甲斐国内の覇権争い、とりわけ
          武田信縄と油川信恵兄弟の争いのなかで、栗原氏らが属した油川派の拠点の1つとして、
          整備・拡張された城なのではないかと考えています。そうみれば、多数の兵を収容できる構造
          になっていることも、長引く内乱のなかで堀などの設備が整えられていったことも、説明できる
          ように思われるのです。そして、街道や間道を押さえているわけでもない、純然な詰城である
          蜂城は、信虎によって国内が統一されるに及んで、次第に使われなくなり自然に廃城となった
          ものと推測されます。

           
 栗原氏館付近から蜂城山を望む。
蜂城山近望。 
 山頂の蜂城天神社。
本殿背後の土塁。 
 同上。
主郭背後の堀切1条目。 
 同2条目。
本丸東脇の竪堀跡とされる箇所。 
 本丸下の帯曲輪跡。
主郭からの塩山方面の眺望。 
 主郭下の帯曲輪群最上段付近。
帯曲輪群の曲輪の1つ。 
 同上。
曲輪群内の竪堀。 
 おまけ:蜂城山のヤマボウシ。
ヤマボウシの先にある竪堀1条目。 
 同2条目。
2条竪堀の先にある2段削平地。 


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