八戸城(はちのへ) | |
別称 : 八戸陣屋 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 南部直房 | |
遺構 : 堀跡、土塁 | |
交通 : JR八戸線本八戸駅徒歩5分 | |
<沿革> 南北朝時代に、根城主南部師行の弟・政長の三男・信助が築いた中館を前身とするといわれる が、確証はない。信助の子孫は中館氏を称したが、その館の位置は明らかでなく、また根城内に 中館と呼ばれる一画が存在する。 寛永四年(1627)に根城南部家(八戸家)が遠野へ移封となると、八戸は盛岡藩の直轄となり、 初代藩主・南部利直によって、後に八戸城が築かれる柏崎の地に代官所が設けられた。このとき、 根城下の集落も八日町〜十三日町の付近に移転したとされる。 2代藩主・南部重直が嗣子なく寛文四年(1664)に没すると、幕府の裁定により重信の異母弟・ 七戸重信が遺領10万石のうち8万石を相続して3代藩主・南部重信となり、同じく重直・重信両人の 異母弟にあたる中里直好が残り2万石を分知された。直好は八戸藩を興して南部直房と名乗り、 八戸の代官所に入って藩政の確立に努めた。 八戸城が近世城郭として本格的に整備されるのは、直房の子・直政のころといわれるが確証は ない。直房・直政父子は、その死因について共に本家盛岡藩による毒殺が疑われ、幕府の詮議 も入っている。この過程で、盛岡藩は疑いを躱すために「八戸藩は支藩ではなくお互いに独立した 対等の立場である」と表明している。 8代藩主・信真は、野村軍記を登用して藩の財政改革に取り組み、他方で文政十二年(1829)に 新御殿を建造した。また天保九年(1838)には、沿岸警備の功績が認められて城主格となった。 すなわち八戸城と呼ばれるのはこれ以降であり、それまでは八戸陣屋などと称していたとみられる が、藩内では単に「御屋敷」と呼びならわされていたとされる。 天守や櫓が設けられる計画もあったといわれるが、9代・信順のときに明治維新を迎え、そのまま 廃城となった。 <手記> 八戸城はJR八戸駅南側の丸みを帯びた河岸段丘に築かれています。城主格となった後の弘化 四年(1847)の絵図が残されており、それによると段丘の角を本丸とし、その外側に二の丸が巡る 構造で、それぞれに堀や枡形などが設けられていることから、最終的には陣屋ではなく城としての 体裁が整っていたようです。 現在は本丸跡が三八城公園となっていますが、遺構はほとんど見られません。堀や土塁の跡と 思しき地形は点在していますが、公園化に伴う造作という可能性もあるため、城跡らしさを感じ取る のは少々難儀です。 二の丸跡には寛政九年(1797)に建てられたという角御殿(すみごてん)の表門が残っており、 貴重な遺物となっています。東北でも北の方に位置する八戸藩は財政が極度に厳しかったようで、 『八戸藩日記』には御者頭・煙山治部右衛門が門と玄関の建造を命じられたものの、資金繰りが 相当に大変であった旨が記されているそうです。 ちなみに「三八城」とは、三戸郡・八戸・城の意といわれています。 |
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八戸城跡碑。 | |
説明板。 | |
本丸のようす。土塁跡か。 | |
同じく堀跡か。 | |
本丸からの眺望。 | |
本丸跡の石碑。 | |
角御殿表門。 |