鍋倉城(なべくら)
 別称  : 横田城、遠野城
 分類  : 山城
 築城者: 阿曽沼広郷
 遺構  : 曲輪、土塁、堀、虎口
 交通  : JR釜石線遠野駅徒歩15分


       <沿革>
           天正年間(1573〜92)のはじめごろ、阿曽沼広郷によってそれまでの居城横田城に代わる
          新たな横田城として築かれた。旧横田城では手狭になったうえ、水害にたびたび悩まされた
          ためとされる。広郷は、同十八年(1590)の小田原の役に参陣しなかったため、改易は免れた
          ものの南部氏の与力となった。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに際し、広郷の子広長は南部家の将として最上氏の救援
          に赴いた。その留守をついて、一門の鱒沢館主鱒沢広勝と横田城留守居の上野広吉および
          平清水平右衛門の3人が謀叛を起こし、横田城を占領した。広勝は南部利直の妹を妻として
          いたとされ、謀叛は阿曽沼氏の排除を企図した南部家の意向によるものといわれる。
           広長は気仙郡の諸領主や伊達氏の援助を受けて所領奪還を図り、激戦の末に広勝を討ち
          取ったが、横田城を落とすことはできなかった。そのまま伊達氏を頼って世田米で余生を送る
          こととなり、遠野領主としての阿曽沼氏は滅んだ。
           広勝の子広純は後に謀反の疑いで切腹を命じられ、平清水氏も娘婿の北信景が元和元年
          (1615)の大阪の陣で豊臣方に属したため、連座して切腹を余儀なくされた。残る上野広吉が
          同七年(1621)に没すると、遠野奉行の毛馬内三左衛門が横田城代となった。
           寛永四年(1627)、利直は南部一門の八戸直義を根城から遠野へ移封させた。直義は横田
          城を改修し、城名も鍋倉城と改めた。以後、八戸家は遠野南部家とも呼ばれ、11代を数えて
          明治維新を迎えた。


       <手記>
           鍋倉城跡は鍋倉公園となっていて、車で三の丸前まで上がれます。三の丸には櫓を模した
          展望台があるのですが、なぜか内装が西洋のロッジ風になっているのが印象的でした。
           三の丸と本丸の間には大手門跡があり、阿曽沼氏時代には2階建ての楼門だったものが、
          慶長七年(1602)に利直の命により四ツ足門に改められたそうです。本丸の北側には八幡社
          の跡があり、南半には遠野南部氏の屋敷が置かれていました。屋敷には表門とは別に玄関
          のような通路があったようで、またその反対側には搦手門跡も見られます。
           本丸の南は堀切を隔てて二の丸があります。二の丸は、八戸氏庶流で南部遠野家家老の
          新田家の屋敷地ということです。結構な広さがあるのですが、墓地になっていて城跡らしさは
          あまりありません。
           同行者がいたのであまりじっくりとは歩きませんでしたが、本丸から三の丸まで1周するだけ
          でも、充分に見応えがありました。

           
 三の丸前の説明板。
三の丸跡のようす。 
 三の丸の展望台。
展望台内部。 
 城山からの眺望。
 左手奥に旧横田城跡が見えます。
大手門跡。 
 本丸の城内八幡社跡。
本丸搦手門跡。 
 本丸の屋敷跡のようす。
屋敷の玄関跡。 
 本丸南端付近の土塁。
本丸と二の丸の間の堀切。 
 二の丸のようす。
二の丸下の小新田屋敷跡。 


BACK