根城(ね) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 南部氏 | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁 | |
交通 : 八戸駅またはJR本八戸駅からバスに 乗り、「根城」下車徒歩1分 |
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<沿革> 南部氏一族の八戸南部氏(根城南部氏/八戸氏)累代の居城である。同氏は奥州南部氏 初代・南部光行の三男・実長を祖とすると伝えられる。ただし、史料上は光行と奥州との関連 は裏付けが取れず、南部氏と奥州糠部とのつながりを鎌倉時代末期以降とする説が有力視 されている。八戸南部氏についても、本貫である甲斐国南部の庶流である波木井南部氏の 南部師行が、建武政権から糠部郡の郡代に任じられる以前の動向は定かでない。戦国時代 に宗家となる三戸南部氏以前は、根城南部氏が嫡流であったとする説もある。 いずれにせよ、根城を築いたのが師行であるという点に異論はみられない。『八戸家伝記』 や『南部五世伝』によれば、南朝の大将・北畠顕家が文字通り奥州の「根城」となるよう命名 したと記されている。師行は延元三/建武五年(1338)の石津の戦いで顕家と共に戦死し、 跡を継いだ弟の政長、その子・信政も南朝方として奮戦した。一方、三戸南部氏の南部守行 は北朝方として足利義満に仕え、ジリ貧であった信政の子・政光は、北朝に降って三戸家の 臣下に入ったといわれる。さらに三戸家が戦国大名南部氏として成長する過程で、八戸家は 八戸氏を称するようになった。 天正十年(1582)、宗家の南部晴政・晴継父子が相次いで世を去ると(没年および死去の 過程については諸説あり)、晴政の従弟ないし甥とされる元養子の田子信直と、晴政の娘婿・ 九戸実親を推す実親の実兄・政実の間で家督争いが勃発した。当時の八戸氏の庶流である 新田氏出身の八戸政栄は、信直を推戴する南部一族の北信愛・南長義に同調して、信直が 家督を継承する決定打となった。このとき、信愛からは政栄自身が家督に座る案も呈された が、これを辞退したともいわれる。 信直が晴れて南部氏当主となると、政栄は信任を得て、天正十八年(1590)の小田原攻め に際し、三戸城の留守を預かったとされる。ただ、この時点で眼病を患い盲目だったともいわ れる。 その後の根城については詳らかでないが、寛永四年(1627)に八戸直義が遠野へ移されて おり、このときまでに廃城となったとみられる。 <手記> 根城は馬淵川と支脈の西ノ沢の形成する河岸段丘の角地に築かれています。正直なとこ、 一般的に見れば中世城郭としてもぱっとする部類ではないと思うのですが、私が城跡好きを 始めた90年代前半にはすでに、一定の評価と注目を集めていたように思います。中心部は しっかりとした発掘調査を経て建物の復元等も行われ、観光と市民の憩いが両立する素敵な 史跡公園となっていました。 古くから知っていると言いつつ、初めて訪れたのはそれから30年以上経ってから。しかも、 3月上旬とて新雪が降り積もっていて、現地で整備をされていた方とお話したところ、海沿いの 八戸で数十cmも積雪があるのは初めてとのことでした。運がいいやら悪いやら^^; そのようなわけで、僕の初めての根城訪問は 南側を県道が走り、その向こうにも城域が広がっていて、沢里館という出丸がわりと寒村状態 だったのですが、その愛おしい空堀すら白の景色に取り込まれ、疲労対効果にまったく見合わ なかったのが口惜しくてなりません笑 |
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八戸市博物館前の南部師行像。 | |
根城の広場入口。 | |
東善寺館跡のようす。 | |
東善寺館の空堀。 | |
同上。 | |
東善寺跡。 | |
中館跡の空堀。 | |
同上。 | |
中館のようす。 | |
中館跡から本丸を望む。 | |
本丸へ渡る復元木橋。 | |
本丸空堀。 | |
同上。 | |
二股に分かれる本丸門の片方。 | |
本丸の復元主殿。 | |
復元馬屋。 | |
下馬屋跡。 | |
復元工房。 | |
同じく鍛冶場跡。 | |
復元鍛冶工房。 | |
奥御殿跡。 | |
本丸の竪穴住居。 | |
本丸裏手の空堀。 | |
同上。 | |
沢里館の堀と土塁。 | |
沢里館跡の観世音堂。 | |
沢里館跡の横堀。 | |
同上。 | |
沢里館郭内のようす。 | |
外郭の三番堀。 | |
同上。 |