萩森城(はぎもり) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 宇都宮清綱 | |
遺構 : 曲輪、土塁、石塁、堀 | |
交通 : JR予讃線八幡浜駅からバスに乗り、 「名坂」下車徒歩40分 |
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<沿革> 伊予宇都宮氏7代清綱は、天文元〜八年(1532〜39)の間に、居城の地蔵ヶ嶽城を嫡男 豊綱に譲り、三男の房綱を連れて萩森城に移った。城がもともとあったのか、このとき築か れたのかは詳らかでない。清綱が没すると房綱が萩森城主を継承したとみられ、萩森殿と 呼ばれ保内郷25村7800石を領したとされる。 兄豊綱は隣の西園寺実充と争い、弘治二年(1556)の合戦で実充の子公高を討ち取って いる。一方で、房綱はいわゆる西園寺十五将の1人に数えられている。西園寺氏が優勢と いうわけではない状況で房綱が寝返るとは考えにくく、永禄十八年(1568)に豊綱が毛利・ 河野連合軍に敗れて捕虜となったことを受けて、西園寺方に身を寄せたものと推測される。 天正二〜四年(1574〜76)ごろ、菅田城主の大野(菅田)直之が土佐の長宗我部元親に 通じ、地蔵ヶ嶽城を乗っ取った。直之は萩森城も攻め落とし、房綱は九州の大伴宗麟を頼り 落ち延びた。しかし、同七年(1579)に宇都宮旧臣の梶谷景雄らの活躍によって城は奪還 され、房綱は萩森城主に復帰した。 遅くとも天正十三年(1585)の羽柴秀吉による四国平定までに廃されたと推測されるが、 詳しい経緯は不明である。 <手記> 八幡浜の市街地に臨む標高202mの山頂が萩森城跡です。標高がほぼ比高ということで かなり高所に位置しているように見えますが、緩やかな山塊の上に乳首のように突き出た 丘が主城域なので、登城口周辺から見るとほとんど丘城といった感じです。 主城域北麓に浄水場があり、その南詰から登城路が延びています。北詰には萩森神社 があり、その境内入口に説明板があるのですが、私が訪れたときは残念なことに倒れて いました。小回りの利く車ならここまで来ることもできますが、途中の道はミカン畑のための 農道なので、あまりおすすめはできません。私は、八幡浜IC北東のマンション横カーブ付近 が広かったのでそこに車を止めて歩きました。ミカン畑を縫うので少し遠回りですが、20分 はかからなかったと思います。車で上まで行ったとしてもヘアピンカーブの連続ですので、 さほど所要時間は変わらないのではないでしょうか。 登城路は途中ではっきりしなくなりますが、丘の西側へ回り込むと、収穫用モノレールの レールがあり、その脇に石段が付いています。それを登ると少し広い果樹畑になり、曲輪 かと思われるのですが、『日本城郭大系』によると、ここは空堀ということです。とはいえ、 堀状にはなっておらず、いまさら空堀を拡幅してまで果樹園を広げるようなことをするとは 思えず、ここは『大系』の誤りで、個人的にはここが副郭のように感じます。 そこからさらに丘を登った先が本丸で、一部に電線鉄塔が建っています。『大系』には、 本丸の南に二の丸と三の丸が続くとありますが、曲輪間の境界は曖昧です。個人的には、 『大系』にいう本丸〜三の丸は、多少の仕切りはあったとしても、1枚の主郭だったものと 考えています。 南端は1段下がって腰曲輪および帯曲輪となっていますが、その段差部分には石塁が 用いられています。ただかなり低いので、後世に城跡を果樹園などに転用した際の構築 とも考えられます。また、主城域の南側および東側は深々と切り下げられていて、一部は 堀切に加工されているようです。 前述のとおり、萩森城は高所にはあるものの、主城域の目の前まで容易に近づくことが できます。果樹園になっている周囲の峰を見回すと、いくつか支砦があってもおかしくない ように感じました。 |
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西側中腹から萩森城跡を望む。 | |
北側の萩森神社前から望む。 | |
萩森神社前の説明板。 | |
主城域北端の斜面。 副郭の切岸跡か。 |
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副郭へは、このレール脇に石段があります。 | |
副郭のようす。 『日本城郭大系』には空堀とあります。 |
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本丸北端の切岸。 | |
主郭跡の電線鉄塔。 | |
主郭内のようす。 『大系』によれば二の丸。 |
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主郭南端のようす。 『大系』によれば三の丸。 |
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主郭南端付近の石塁。 | |
主郭南端付近の斜面。 堀切か。 |