大洲城(おおず)
 別称  : 地蔵ヶ嶽城、大津城、比志城
 分類  : 平山城
 築城者: 宇都宮豊房か
 遺構  : 櫓、石垣、堀
 交通  : JR予讃線伊予大洲駅徒歩20分


       <沿革>
           豊前宇都宮氏6代宇都宮(城井)頼房の次男豊房は、元徳二年(1330)に伊予守護に
          任じられ、肱川沿いの地蔵ヶ嶽に城を構えた。伊予の中心地である道後平野ではなく、
          山間の大洲に築城した理由は定かでないが、すでに道後平野に根付いていた河野氏を
          憚ったものとも推測される。
           築城に際しては、次のような人柱伝説が伝わっている。石垣を何度積んでも崩れたこと
          から人柱を立てることになり、「おひじ」という娘がくじ引きで選ばれた。豊房は若いおひじ
          を憐れに思い、何か望みはないかと訊くと、おひじはせめて川に自分の名をつけてほしい
          と言い残した。石垣は二度と崩れることはなく、城の脇を流れる川は肱川と呼ばれるよう
          になったというものである。ただ、鎌倉末期の城に石垣を築く習慣があったとは考えにくく、
          信憑性は低い。
           室町時代に入ると、伊予守護職は河野氏や細川氏の手に渡り、伊予宇都宮氏は有力
          国人の1つという位置づけとなった。8代当主宇都宮豊綱は、土佐一条氏と結んで河野氏
          に対抗し、隣領西園寺実充の嫡子公高を討ち取るなど積極的に活動した。 しかし、永禄
          十一年(1568)に毛利氏が河野氏支援に乗り出すと、豊綱は毛利軍に鳥坂峠の戦いで
          敗れた。地蔵ヶ嶽城は毛利氏麾下の小早川隆景軍に囲まれ、同年十一月に降伏・開城
          した。
           その後の豊綱の動向については不明な点が多いが、天正三年(1575)前後に重臣の
          菅田城主大野(菅田)直之が地蔵ヶ嶽城を奪取していることから、このころまでは存命・
          在城していたと思われる。また、この直之による下剋上のころには、地蔵ヶ嶽城のほかに
          大津城とも呼ばれていたとみられている。
           天正十三年(1585)の羽柴(豊臣)秀吉による四国攻めに際し、直之は再び伊予に上陸
          した隆景によって城を逐われたとも、討ち死にしたともいわれる。戦後、伊予一国は隆景
          に与えられたが、2年後の同十五年(1587)に筑前へ転封となり、戸田勝隆が大津7万石
          に封じられた。勝隆の時代に、大津城は近世城郭としての一歩を踏み出した。文禄三年
          (1594)に勝隆が嗣子なくして没すると、遺領は藤堂高虎に与えられた。高虎は宇和島城
          を改修して居城とし、大津城も支城として整備した。
           慶長十四年(1609)、高虎は安濃津へ加増・転封となり、代わって脇坂安治が洲本から
          5万3500石で大津城に入った。安治のころに名称が現在の大洲に改められたとされるが、
          異説もある。また、大洲城天守はこのとき洲本城から移築されたものとの説もある。
           元和三年(1617)、安治の子安元は信州飯田へ転封となり、加藤貞泰が6万石で米子
          から大洲へ移った。以後、加藤家が13代を数えて明治維新を迎えた。


       <手記>
           大洲城といえば、2004年に木造で忠実に再建された4層4階の天守が有名です。今の
          建築基準法では認められない規模の木造建築を、例外認定させたものということからも、
          復元とはいえ貴重な建造物であることがうかがえます。もはや建物よりも埋もれた遺構
          にキュンとくる異常体質になってしまった私ですが、長年「見てみたい!」と思っていた
          天守なので、「ようやく会えたね」といった感じでいつになく興奮してしまいました。
           ちょうど春も盛りで、城山は桜、肘川の河原は菜の花とおそらく訪城には最も良い季節
          に来られたのではなかろうかと思います。黒塗下見板張りで、本来なら忌数である4重の
          天守は、雄々しく美しい姿で写真に収まってくれました。幕末の建築ながら現存している
          天守両脇の高欄櫓・台所櫓と合わせて、姫路城松本城にも劣らない優美な複合天守
          のようすを伝えています。
           ただ、期待が大きかっただけに、天守以外の城山の状態については少々残念でした。
          個人的に、川べりの独立丘を中心に同心半円状に広がる大洲城の縄張りが好きだった
          のですが、天守建設に際してのものと思われる舗装された重機道が本丸まで縄張りを
          破壊しながら続いていて、天守のほかに山城部に再建されたのはトイレと間違えそうな
          御門番長屋のみという現状には嘆かざるを得ません。大洲市の地力では、天守復元が
          限界で、その他の保全までは手が回らなかったのかなと寂しく拝察するのみです。
           唯一の希望は、二の丸とその下の御本邸跡が発掘調査中だったことで、史跡公園化
          がきちんとなされれば、景観の回復につながるものと期待されます。
           大洲城のもう1つの見どころは、最古の現存建物である三の丸南隅櫓です。内部にも
          無料で入ることができ、白木の香りがまだ残る復元天守に対して、現役当時の息づかい
          が感じられます。櫓の下の県立大洲高校グラウンドは堀跡で、かなりの幅があります。
          高校校舎南東隅付近が搦手門跡で、校舎の西にはもう1つ丘の上にグラウンドがあり、
          かつては丘の上からダイレクトに城内に進入できる縄張りだったようです。おそらくは、
          戦時には丘も防衛ポイントに組み入れられる仕様だったものと思われます。

 肱川対岸から大洲城址を望む。
同じく河原から菜の花と桜ごしの天守。 
 天守群の雄姿。
大天守近望。 
 天守から東方向(冨士山方面)の眺望。
井戸曲輪から見た天守。 
 井戸曲輪の井戸跡。
二の丸北曲輪から天守を見上げる。 
 御門番長屋。
二の丸大手の下台所。 
 大手門跡。
苧綿櫓。 
 三の丸南隅櫓。
三の丸堀跡から南隅櫓を望む。 
 三の丸の堀跡と搦手門脇の石垣。
内堀跡の菖蒲園ごしに望む天守。 


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