波川玄蕃城(はかわげんば)
 別称  : 波川城、葛木城
 分類  : 山城
 築城者: 波川清宗
 遺構  : 曲輪、土塁、虎口
 交通  : JR土讃線波川駅徒歩30分


       <沿革>
           長宗我部元親の妹婿となった波川玄蕃頭清宗によって、天正元年(1573)ごろに
          築かれたとされる。波川氏は蘇我氏の後裔といわれ、建久年間(1190〜98)に波川
          郷に入植した蘇我国光が波川氏を称したのがはじまりと伝えられる。ただし、清宗
          以前の波川氏の動向や居城については定かでない。
           清宗は、長宗我部元親の弟吉良親貞が一条氏の蓮池城を奪取した永禄十二年
          (1569)ごろに、長宗我部氏に降ったとみられる。仁淀川中流域に勢力をもつ波川氏
          を取り込んでおくことは、一条氏攻略に乗り出した元親にとって重要であったと推測
          され、四万十川の戦いで一条兼定を完全に駆逐する天正三年(1575)までの間に、
          婚姻が成立したものと考えられる。おそらく、波川玄蕃城の築城と期を一にするもの
          と思われる。
           天正五年(1577)、毛利家中の小早川隆景が地蔵ヶ嶽城の大野直之を攻めると、
          直之は長宗我部氏に救援を求めた。元親は清宗を後詰に派遣したが、清宗は独断
          で隆景と和議を結び、直之を見捨てて帰国してしまった。これに激怒した元親は、
          清宗に蟄居を命じた。
           天正八年(1580)、不満を募らせた清宗は謀反を企てたが、事前に露見して追討
          を受けた。剃髪して阿波国海部郡にあった元親の弟香宗我部親泰を頼るも、赦され
          ず自害を余儀なくされた。残った波川一族は鎌田城に籠ったものの、兵を差し向け
          られ、攻め滅ぼされた。このとき波川玄蕃城で戦闘があったかは不明である。
           これにより、波川玄蕃城は廃城となったものと推測される。波川氏のほとんどは
          族滅したが、清宗の四男清久(清信)は生き残り、幕末まで続いた。


       <手記>
           波川玄蕃城という史跡名で知られていますが、当時もそう呼ばれていたとは思え
          ません。おそらく、波川城ないし葛木城などと呼んでいたのでしょう。東麓から山頂
          近くまで林道が伸びていて、山上には広い駐車スペースもあります。ただ、林道は
          細く九十九折れになっていて、小回りの利かない車で登るのはおすすめしません。
           山頂の主郭とその下の副郭の大きく2曲輪から成るいたってシンプルで小規模な
          城です。主郭には電波塔が建っていますが、周囲の土塁はよく残っています。現地
          の説明板には主郭の北西隅と南西、いの町のHPには北西隅と南東の2ヶ所に虎口
          が開いているとあります。北西隅は見紛うことなき立派な虎口なのですが、南西隅
          は電柱が建っていて判然としません。南東は木の階段を登った先の現在の出入口
          となっているのですが、現地説明板に従うならばこれは電波塔建設に伴って土塁を
          切り崩して造ったものということになります。どちらが正しいのか、情報をお持ちの方
          がいたらおうかがいしたいところです。
           その下の副郭は簡単に公園化されていて、ベンチと木柵、そして作業用の舗装路
          が敷かれています。それ以外には、しばらく歩き回ってみても遺構らしきものは見当
          たりませんでした。元親の義弟の居城としては、なんとも簡素な感じでちょっと拍子
          抜けしてしまいました。

           
 東麓から波川玄蕃城跡を望む。
主郭の説明板と城址碑。 
 主郭北東隅の土塁。
主郭北西隅の虎口。 
 主郭南西隅。虎口跡か。
主郭南東隅の出入口。 
虎口跡なのか現代の工事によるものか。 
 主郭から高知市方面の眺望。
主郭下の帯曲輪跡か。 
 副郭跡。


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