羽茂城(はもち) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 足立氏か | |
遺構 : 空堀 | |
交通 : 真野市街または佐和田市街からバスに 乗り、「一の宮入口」下車徒歩10分 |
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<沿革> 佐渡本間氏の有力分家の1つ羽茂本間氏の居城である。羽茂家は鎌倉時代の本間 重成を祖とするとされるが、その出自は河原田本間家とも吉岡本間家ともいわれ判然 としない。また、当初の居城は羽茂川河口近くの清士岡城にあったともいわれ、羽茂城 の築城時期についても定かでない。 羽茂本間氏は南北朝時代に勢力を拡大し、16世紀初めまでには宗家の雑太本間家 と比肩しうるまでに成長した。羽茂城が築かれたのは、一般にこの間のことと考えられ ている。永正六年(1509)には、関東管領上杉顕定に敗れた越後守護代の長尾為景を 匿い、翌年の長森原の戦いでの反撃を援けた。一説には、為景の妹が羽茂本間家に 嫁いだともいわれる。大永四年(1524)以降は、羽茂本間氏は本家や河原田本間家、 宮浦本間家などと激しく争うようになった。 長尾氏および上杉氏との関係を背景に、佐渡で最も有力な勢力の1つとして君臨した 羽茂本間氏であるが、天正十七年(1589)に至って事態が大きく転換した。上杉景勝 が佐渡平定の兵を興すと、羽茂本間氏は河原田本間氏などとともに反上杉の立場を とった。羽茂城は上杉勢に攻め落とされ、城主本間高季(高貞とも)は捕えられて斬首 された。 まもなく佐渡全島が平定され、羽茂城には上杉家臣富永長綱や黒金尚信らが城番 として派遣された。慶長三年(1598)に景勝が会津へ転封となった後も、佐渡は上杉家 の所領であり続けた。しかし、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで上杉氏が与した西軍 が敗れると、佐渡は徳川氏に没収され、羽茂城も廃された。江戸中期の編纂とされる 『佐渡古実略記』によれば、慶長九年(1604)に大久保長安が佐渡代官に就任した際、 羽茂城の材木を用いて小木に代官所が建造された。 <手記> 羽茂川沿いには緩やかな地形が広がり、佐渡島では国中平野の次に開発に適した エリアではないかと思われます。今では小木の方が発展していますが、羽茂に拠った 羽茂本間氏が佐渡の最有力勢力の1つにのし上がったというのも、故なきこととはいえ ないでしょう。 羽茂城址へは、裏手の林道の分岐点から登ることができます。交差点に説明板が あり、ここに車1台分程度のスペースもあります。交差点の反対側の峰にも、北の城や 厩・馬場跡があり、前者は民家の畑地のようで訪ねるのは困難ですが、後者は見学は 可能のようです。 羽茂城の特徴といえば、やはり佐渡の城の中では規模が図抜けて大きいという点に あるでしょう。上杉氏によって拡張された部分もあるかもしれませんが、主城域の構造 はおおよそ本間氏時代を踏襲していると思われます。堀や虎口といった造作は少ない ものの、広範囲に曲輪が広がり、羽茂本間氏の実力がうかがえます。 縄張り上で面白いのは、殿屋敷と奥方屋敷という2つの曲輪の間が築山で隔絶され ているという点です。文字通りそれぞれの曲輪にお殿様と奥方様が住んでいたとすれ ば、両者は簡単に行き来することはできなかったことになります。さらに、大手側から 奥方屋敷へ通じる門は「不明門」とされており、当城における奥方様はかなり閉鎖され た空間に囲われていたということになりそうです。 さらに、この不明門と大手門の間の細尾根には土塁と竪堀が設けられているものの、 曲輪形成はされていないというのも印象的でした。総じてみると、殿屋敷と奥方屋敷を 取り囲むように曲輪や土塁が配置されていて、南側が谷になっているものの、擂鉢状 の構造を基本とした城であるといえるでしょう。 |
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羽茂城址説明板。 | |
城址入口。 斜面の上は出丸の荒神城。 |
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東門跡。 | |
殿屋敷のようす。 | |
荒神城から続く尾根の堀切。 | |
主郭の五社城を見上げる。 | |
主郭の五社城跡。 | |
五社城下の虎口状地形。 左奥に南の城があります。 |
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五社城下の溜池。 | |
二の城跡。 | |
奥方屋敷へ通じる不明門跡。 | |
大手門跡。 | |
大手門と不明門の間の尾根の土塁。 | |
同じく竪堀跡。 | |
奥方屋敷のようす。 | |
厩跡のようす。 |