簗瀬城(やなせじょう)
 別称  : 原市城、稲荷城
 分類  : 平城
 築城者: 安中氏か
 遺構  : 土塁、堀
 交通  : JR信越本線磯部駅徒歩30分


       <沿革>
           『日本城郭大系』では、築城者は「安中氏でなければならない」としているが、史料
          にはみられないため、詳細は不明である。


       <手記>
           簗瀬城は、碓氷川とその支脈が形成する小規模な舌状地形を利用して築かれて
          います。史料には現れないため、簗瀬城ないし原市城というのは地名から付けられ
          たものと思われます(稲荷城というのは、本丸に鎮座する稲荷神社にちなむもので
          しょうから、当時の呼び名としてはあり得たとは思えません)。
           神社の四周に、本丸の土塁と堀跡が良好に残っています。これだけ綺麗に残って
          いるのに、伝承すらないというのが不思議なくらいです。『大系』所収の縄張り図に
          よれば、本丸の西にも南北に惣堀状の空堀が南北に走っていたということですが、
          これも宅地のなかに一段低い畑地として痕跡をとどめています。
           この城については、『大系』が断定的に推測しているように、碓氷川の渡河点を
          押さえる目的で、安中氏によって築かれたものとみるのが自然でしょう。ただ、個人
          的には、ひとつ西側にある八幡平陣城との関連を考えています。
           永禄四年(1561)に武田信玄が安中領へ侵攻した際、安中城と松井田城の分断
          を図って、八幡平陣城が築かれたとされています。この陣城の位置については今も
          不明ですが、「首塚」が発見されたことから、簗瀬城の西に存在した方形の崖端城
          がそれに比定されています。
           しかし、既に簗瀬城が安中氏によって築かれていたとすれば、わざわざその眼前
          に立派な陣城を新築するより、簗瀬城を奪って使用した方が早いはずです。そこで、
          改めて簗瀬城の縄張り図を見てみると、本丸の西の空堀は、どうも後になって増築
          されたもののように見えてなりません。すなわち、もともと簗瀬城は、現在の本丸を
          西端とし、東の舌状先端に向かって段築状に曲輪を設けたもので、信玄がこれを
          接収して西側に増築し、陣城としたのではないかと推測しています。
           さらにいえば、陣城に比定されている簗瀬城の西の崖端城も、東側に増築されて
          いるような感を受けます。したがって、八幡平陣城とはこれら2つ(あるいは3つ)以上
          から成る複合的な砦群だったのではないかと、私見ながら考察しています。

           
 簗瀬城址板碑と本丸土塁。
本丸の城山稲荷神社。 
 本丸北辺の堀と土塁。
本丸土塁北西端のようす。 
 本丸西辺の堀跡と土塁。
本丸の西側の空堀跡と思しき畑地。 
 城の北端を成していたと思われる小流。


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