八幡平陣城(はちまんたいら)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 武田信玄か
 遺構  : なし
 交通  : JR信越本線磯部駅徒歩30分


       <沿革>
           永禄四年(1561)、武田信玄が安中氏領に侵攻し、八幡平に陣城を置いて安中城
          松井田城の分断を図った。簗瀬字八幡平にあった方形の城館跡が、この陣城に比定
          されているが、確証はない。城跡とその東の二子塚古墳との間にある首塚は、昭和
          六年(1931)に偶然発見されたものだが、ここが首塚であるという伝承等は残されて
          いない。塚の下からは約150体分の頭蓋骨が積まれた状態で見つかった。その特徴
          から、骨は中世の日本人のものと推定され、なかには刺創のあるものもあったため、
          武田氏の侵攻時に討ち取られた人々の首塚と考えられているに過ぎない。
           この城が八幡平陣城であるとするのも、隣に首塚(と思われるもの)があることから
          の推測に過ぎず、断定できるだけの証拠は得られていない。


       <手記>
           八幡平陣城は、碓氷川の支脈に面した河岸の崖端城です。現在、城跡には社宅
          が建っていて、遺構は消滅してしまっているようです。北西隅から社宅前を横切り、
          かつてはおそらく畑地だった更地を抜けて二子塚古墳へと出ましたが、やはり遺構
          らしきものは見当たりませんでした。二子塚古墳は、何やら公園整備中だったようで
          ロープが張られて立ち入ることができず、肝心の首塚にも行けませんでした。
           この城が信玄の築いた陣城であるという説については、断じてしまうのは尚早かな
          と感じます。そもそも、陣城であるとする論拠の首塚について、私は疑問を覚えます。
          一国人との合戦で、片方だけで150人もの死者が出るだけでもかなり凄惨な結果と
          いえるところ、わざわざ首を切って実検に回されたとすれば雑兵ではなくそれなりの
          身分をもつ人々のものと考えられます。いくつかの戦いで出た戦死者の首をまとめて
          埋めたともみられているようですが、それなら対象を信玄の安中氏攻めに限る必要
          はなくなります。ネットで閲覧した首塚の説明書きによれば、市教委でももともと別の
          ところに埋められていた首が、江戸時代に地元民によって改葬されたものと推測して
          いるようです。
           何より、この城の東西には簗瀬城滝山城という立派な城が存在しており(どちら
          も上の地図内に収まっています)、これらの城を取り立てれば良いところを、わざわざ
          陣城を新築する理由が分かりません。
           地形に目を転じてみると、崖端の三方に堀を巡らして城としており、陣城というより
          は典型的な開発領主の館城という方がふさわしいように思われます。城の西から南
          へと麓を巡る谷戸は、水源もすぐ近くにあり生産性も高そうにみえます。個人的には、
          簗瀬城や滝山城と同時期かむしろそれ以前に、地元の入植者によって築かれたと
          推測しています。
           ただ、その場合も、信玄がこの城を徴発して、二子塚古墳を物見台として取り込む
          形で東側に増築した、という可能性も否定はできないでしょうが。

           
 八幡平陣城跡を南西から谷戸越しに望む。
城の東端付近とされる二子塚古墳。 
 古墳と主城域の間の更地。


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