安中城(あんなか)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 安中忠政
 遺構  : 土塁跡か
 交通  : JR信越本線安中駅徒歩20分


       <沿革>
           永禄二年(1559)、安中忠政(重繁)によって築かれたとされる。安中氏の出自に
          ついては諸説あって定かではないが、もともとは越後の国人で、15世紀後半ごろに
          碓氷郡に移住してきた一族とする点では一致している。忠政は松井田城や榎下城
          を本拠としていたが、東隣の野尻郷を領していた窪庭図書を逐って城を築き、地名
          を安中、城名を安中城と改めたとされる。忠政自身は松井田城に拠り、安中城には
          嫡子の忠成(景繁)を配置した。このころが安中氏の最盛期とみられ、後世に記述
          された軍記物(『安中記』『和田記』など)によれば、安中氏は秋間七騎と呼ばれる
          家臣団を率い、8万石を領したとされる(ただし、石高については明らかに過剰算出
          とみられている)。
           永禄四年(1561)、上野侵攻を開始した武田信玄は、安中と松井田の間の原市
          に軍勢を楔入させ、八幡平陣城を築いて両城の連絡を断った。安中氏はその後も
          抵抗を続けたが、同七年(1564)に安中城の忠成が、次いで松井田城の忠政が
          降伏した(降伏年についてはもっと早い時期とする説も有)。忠成は安中城を安堵
          されたが、忠政は自害を命じられたとされる(生存説有)。また、忠成は降伏を期に
          名を景繁と改めたと一般にいわれているが、一次史料上認められる名は父子とも
          に「重繁」「景繁」のみとされる。
           景繁は、武田氏配下の上野国人衆のなかでも引き続き重要な位置にあったよう
          だが、天正三年(1575)の長篠の戦いで討ち死にした。安中氏の家督は左近大夫
          久繁が継いだが、同六年(1578)に本領回復の祈願文を赤城神社に奉納している
          ことから、安中城主であったかは定かでない。『日本城郭大系』では、景繁の死後
          安中城は荒れるに任せ耕地と化したとある。なお、久繁については、景繁の子と
          する説もあるが、安中氏の系図における位置の不明な人物である。
           天正十八年(1590)の小田原の役に際し、松井田城は碓氷峠を越えて侵入する
          豊臣勢を食い止める拠点として取り立てられたが、安中城の扱いについては不明
          である。同役で北条氏が滅亡すると、安中氏も没落した。代わって関東に入封した
          徳川家康は、井伊直政に高崎12万石を与えた。安中城は直政の所領に組み込ま
          れ、改修を受けたともいわれる。
           元和元年(1615)、直政の跡を継いで彦根藩主となっていた直継は、病弱を理由
          に藩主の座を弟の直孝に譲るよう家康に命じられ、安中3万石を分知された。分知
          ということから、安中は彦根藩成立後も井伊領だったものとみられる。直継は直勝
          と名を改め、安中城を藩府とする安中藩が誕生した。
           直勝から家督を譲られた子の直好は、正保二年(1645)に西尾藩へ転封となり、
          代わって水野元綱が2万石で入城した。元綱の子の元知は、寛文七年(1667)に
          傷害事件を起こしたため改易となり、堀田正俊が同じく2万石で安中藩主となった。
          正俊は、徳川綱吉の将軍就任に尽力したため、天和元年(1681)に古河13万石へ
          大幅加増された。その後、板倉家2代、内藤家3代、板倉家(再封)6代を経て明治
          維新を迎えた。
           ちなみに、時代劇の題材などによく使われる「安政遠足」は、安政二年(1855)に
          ときの藩主板倉勝明によって行われた藩士によるマラソンである。


       <手記>
           安中城は、碓氷川を九十九川に挟まれた細長い台地上の城です。現在、城域は
          市街地に取り込まれており、遺構はほとんど残っていません。文化センター一帯が
          本丸跡とされていますが、ここには城址碑等は見当たりません。センターの東側に、
          目立たない、というよりやや朽ちて文字の読めなくなった、坂下門跡の標柱があり
          ます。その北は崖になっているので、ここが本丸の北端のようにみえますが、これ
          はバイパス建設によって削られたもので、実際には本丸の北半分ほどが失われて
          いるようです。
           その他、周辺にはいくつか標柱はみられるものの、遺構としては残っていません。
          センターの南西には武家長屋が復元されています。
           本丸東方にある熊野神社と西広寺の間の東門跡は、城内でもっとも城跡らしい
          雰囲気を残しているところといえると思います。東側の台地麓から鉤の手に折れて
          城内に至る東門跡脇の西広寺北辺には、ややこんもりとした竹藪があります。直感
          的には土塁跡のようにみえ、そうだとすれば城内でもかなり貴重な現存遺構という
          ことになろうかと思います。
           近世安中城は、舌状の台地にありながら、その先端を本丸にしていません。他方、
          安中氏時代の安中城は、現在の本丸よりも先端側(東側)を本丸としていたとされ
          ています。熊野神社は、もともと城の鬼門除けとして創建されたものとされているの
          で、おそらく初期安中城の主郭は、西広寺からその西の大泉寺にかけてのあたり
          にあったものと推測されます。

           
 本丸跡に建つ文化センター。
本丸坂下門跡。 
 大手から延びる広小路。
町口門番所跡。 
 使者場入口跡を大手(中山道安中宿)側から。
東門跡。 
 熊野神社。
西広寺を南側から望む。 
 西広寺北辺のこんもりした竹藪。
 土塁跡か。
復元された武家長屋。 


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