山崎城(やまさき)
 別称  : 鹿沢城、山崎陣屋
 分類  : 平城
 築城者: 宇野氏か
 遺構  : 門
 交通  : JR姫新線播磨新宮駅からバスに乗り、
      「山崎」下車徒歩3分


       <沿革>
           天正十二年(1584)、長水城主神子田正治が小牧・長久手の戦いで主君・羽柴秀吉の
          不興を買って追放されると、黒田孝高に宍粟郡5万石が与えられた。『黒田家譜』には、
          孝高が「幡州宍栗郡山崎の城」に入ったとあり、山崎城を指すとも、背後山上の篠ノ丸城
          のことともいわれる。そもそも神子田氏以前から中世城館があったともいわれるが、確証
          はない。
           天正十五年(1587)に孝高が豊前へ移封とされると、秀吉の義甥にあたる木下勝俊が
          山崎城主となった。勝俊は文禄二年(1593)に若狭後瀬山城主へ転じたため、山崎城は
          いったん廃城となったとみられる。
           慶長二十年(1615)、姫路藩主池田輝政の四男で徳川家康の外孫にあたる池田輝澄
          が、宍粟郡3万8千石を分知されて今日に繋がる城館を建造した。寛永八年(1631)には
          3万石を加増されたが、急激な石高増大によって家臣団の間で対立が生まれ、同十七年
          (1640)に池田騒動を引き起こして改易となった。
           代わって、松井松平康映が岸和田から5万石で入封するも、慶安二年(1649)に浜田藩
          へ転封となった。次いで、姫路藩主池田利隆の次男・恒元が3万石で入部した。しかし、
          3代・恒行が延宝六年(1678)に7歳で夭折し、無嗣断絶となった。
           翌延宝七年(1679)、郡山新田藩1万石の藩主であった本多忠英が同石で山崎藩主に
          封じられた。これ以降、山崎城は山崎陣屋と呼ばれることになる。本多家は9代を数え、
          明治維新を迎えた。


       <手記>
           山崎城は揖保川の河岸段丘上に位置し、立地上は崖端城として中世城館が存在したと
          しても不思議ではありません。現在、本丸には明治時代の建物を移築した山崎歴史民俗
          資料館が建ち、二の丸は山崎小学校、三の丸は文化会館となっています。
           本丸東辺には、唯一の現存遺構といえる陣屋門があります。町方の「紙屋」が建築資金
          を寄付したことから紙屋門の通称で親しまれ、幕末の建造とされています。ほかにも門や
          堀跡の石碑がちらほら建てられているのですが、はっきりとした遺構は残っていません。
           全体として、3万石以上の大名の居城としては手狭で、1万石の陣屋としては大きすぎる
          といった印象です。

 紙屋門。
角櫓跡。 
 本丸跡石碑。
本丸埋門跡。 
 河岸を利用した城の南辺。
同上。 
 表御門跡。
中堀跡石碑。 


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