林野城(はやしの)
 別称  : 倉敷城
 分類  : 山城
 築城者: 後藤良兼か
 遺構  : 曲輪、石積み、土塁、堀、虎口、井戸跡
 交通  : JR姫新線林野駅徒歩40分


       <沿革>
           『美作国古城記』によれば、三星城主後藤良猶の弟・後藤良兼が鎌倉時代に居住していたと
          される。ただし良猶については、南北朝時代初期の観応元/正平五年(1350)に、山名義理に
          よって塩湯郷地頭に推挙された後藤下野守康基の別名ともいわれる。義理は、貞治五/正平
          二十一年(1366)に美作守護となっているが、当時はまだ13歳であったため疑念も残る。また、
          康安元/正平十六年(1361)には、義理の父・時氏が美作へ攻め入り、林野城を攻め落とした
          と伝わる。美作後藤氏は藤原秀郷流を称しているが、康基以前の動静は明らかでない。
           その後、経緯は不明だが、戦国時代には英田郡江見荘を本貫とする江見氏が保有していた
          とみられる。天文十七年(1548)に江見久盛が尼子氏に従属すると、尼子晴久は美作経略の
          拠点として重臣・川副久盛を林野城に入れた。
           天文二十三年(1554)、三星城の後藤勝基が尼子氏から離反して林野城を攻めたが、川副・
          江見の両久盛はこれを撃退した。永禄三年末(1561)に晴久が急死すると、同八年(1565)の
          月山富田城の戦いまでに川副久盛は美作から引き揚げたが、江見久盛はその後も尼子方に
          留まって林野城を墨守した。尼子氏滅亡後は勝基に属したとみられるが、詳細は不明である。
           天正七年(1579)、延原景能率いる宇喜多軍が三星城を攻め落とし、後藤氏が滅亡すると、
          江見氏も宇喜多氏に降った。林野城には宇喜多家臣・片岡土佐守や森藤新五左衛門が城代
          に置かれた。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで宇喜多家が取り潰されると、美作は小早川秀秋の領国と
          なった。林野城には稲葉通政(正成)が入ったとされるが、通政は翌年に秀秋と対立して美濃へ
          逼塞しており、その後の扱いは定かでない。
           慶長七年(1602)に秀秋が急死し、翌年に川中島藩主の森忠政が美作一国に封じられると、
          これに反発する土豪らが林野城に集結して国人一揆に及んだ。しかし、連携を欠いた国人衆は
          忠政の入国阻止に失敗し、離反者が続出して瓦解した。林野城は森家に明け渡され、一揆の
          首魁であった難波宗守は自害した。これを以て、林野城は廃されたとみられる。


       <手記>
           吉野川と梶並川の合流点に突き出た標高249mの城山が林野城跡です。梶並川は城山の北
          でも滝川と合流し、一帯はかつて倉敷と呼ばれる物流拠点でした。しかし、岡山県が成立する
          と備中にも美観地区で有名な倉敷があるため、1918年に倉敷町から林野町へ改名されたそう
          です。林野の城名や町名は、より広い範囲を表す林野郷や林野保にちなむようです。
           南麓のハローワークの奥から墓地へ上がったところに説明板があり、城跡まで登山道が整備
          されています。墓地は東側の安養寺のものですが、境内からは登山道へ行けない(墓地伝いに
          行けるかもしれませんが未確認)ので、注意が必要です。
           林野城は細長い山容そのままに曲輪を直列させた連郭式の山城で、大きく主郭部・二の丸部・
          三の丸部に分かれます。二の丸部と三の丸部はそれぞれ最前方に土塁を設けていますが、堀
          はみられません。主郭部は最前方が櫓台状を呈しており、その下には堀切が穿たれています。
          主郭はミカヅキモ状にたいへん長く、中ほどには浅く掘り込んだ井戸区画と、長方形の土壇地形
          が認められます。土壇地形には部分的に石積み跡がみられますが、大規模に石塁が用いられ
          ていた感じではありません。
           主郭の背後には2段の腰曲輪が付属し、そのうち下段の曲輪にも井戸跡があります。さらに
          尾根を下りていくと、堀切が1条設けられて最後尾となっています。
           全体として規模の大きな山城ですが、江戸時代初期まで使用されていたにしては旧態依然と
          した縄張りで、近世城郭への改修は認められません。それにしても、川の向こうには三星城跡が
          あり、後藤氏としてはこの至近距離で尼子氏の重臣が控えていたのでは常に心中穏やかでは
          なかったでしょう。

           
 南西から林野城跡を望む。
登山口の説明板。 
 三の丸跡。
三の丸から下方の腰曲輪群を望む。 
 最下段の曲輪と土塁。
最下段の曲輪の虎口跡。 
 三の丸から上方の腰曲輪群を望む。
二の丸跡。 
 二の丸の土塁。
二の丸および後方のようす。 
 本丸前方下の堀切。
本丸跡。 
 本丸前方の櫓台状土塁。
櫓台状土塁から堀切を見下ろす。 
 本丸前半部のようす。
本丸の井戸区画。 
 本丸の井戸跡。
本丸中ほどの土壇地形。 
 土壇地形の石積み跡。
土壇地形の上。 
 本丸後半部のようす。
本丸背部の土塁。 
 本丸背後の腰曲輪上段。
同下段。 
 同下段の井戸跡。
同下段から本丸方面を望む。 
 最後尾の堀切。
同上。 


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