三星城(みつぼし)
 別称  : 妙見城
 分類  : 山城
 築城者: 渡辺長寛か
 遺構  : 曲輪、土塁、堀
 交通  : JR姫新線林野駅徒歩20分


       <沿革>
           土豪・渡辺長寛が応保年間(1161〜63)に妙見城を築いたのがはじまりとされる。正治二年
          (1200)、長寛の子・長信は梶原景時に付き従って没落したと伝わる。
           『美作古城史』によれば、元弘二年(1332)に坂手監物が三星城で自害したと「坂手氏系図」
          にみえるとある。一方『美作国古城記』によれば、三星城には後藤良猶が鎌倉時代に居住して
          いたとされる。ただし良猶については、南北朝時代初期の観応元/正平五年(1350)に、山名
          義理によって塩湯郷地頭に推挙された後藤下野守康基の別名ともいわれる。義理は貞治五/
          正平二十一年(1366)に美作守護となっているが、当時はまだ13歳であったため疑念も残る。
          美作後藤氏は藤原秀郷流を称しているが、康基以前の動静は明らかでない。遅くとも暦応二/
          延元四年(1339)には、後藤氏の居城となっていたとみられている。
           文亀二年(1502)、後藤勝政が美和山城の立石氏を攻め滅ぼすと、後藤氏は赤松氏配下の
          作東最大勢力にのし上がった。天文十七年(1548)に江見久盛が尼子氏に従属すると、尼子
          晴久は美作経略の拠点として三星城真向かいの林野城に重臣・川副久盛を入れ、後藤勝基も
          まもなく尼子氏に降った。
           天文二十三年(1554)、勝基は尼子氏から離反して林野城を攻めたが、川副・江見の両久盛
          はこれを撃退した。永禄三年末(1561)に晴久が急死すると、同八年(1565)の月山富田城
          戦いまでに川副久盛は美作から引き揚げると、勝基は備前の浦上宗景と結んで再び反尼子の
          姿勢をとった。浦上家重臣・宇喜多直家の女を娶った勝基は、尼子氏が滅亡すると江見氏らを
          降して再度作東の覇権を握った。
           天正三年(1575)に直家が宗景を追い落とすと、勝基は舅の直家と対立するようになった。
          反宇喜多の浦上旧臣らを糾合して直家に対抗するが、同七年(1579)には延原景能を大将と
          する宇喜多勢が三星城を攻撃した。後藤勢は奮戦するも五月二日に落城し、勝基は長内村の
          大庵寺で自害した。勝基の子・元政は、自刃したとも落ち延びたともいわれる。
           後藤氏滅亡後、直家は林野城に城代を置き、三星城は廃城となったとみられる。


       <手記>
           三星山とは、3つのピークを有することから付いた呼び名だそうです。北東麓の明見三星稲荷
          神社参道口に説明板があり、そこから山頂まで登山道が延びています。神社へは参道を登って
          左に折れて行きますが、真っすぐ住むと谷筋に削平地があり、東側の尾根に上がると後藤勝基
          の供養塔と広大な平場が現れます。屋敷跡とも思われますが、そもそも遺構かは不明です。
           供養塔の脇からさらに登山道を進むと、城山北尾根の細長い平場に出ます。現地には西の丸
          大郭や切岸跡といった標柱が建ち、平場には土塁もみられますが、やはり造成痕が大きいため
          どこまでが遺構かは留保が必要でしょう。
           平場の付け根から、三星城の特徴の一つである竪土塁が尾根筋に延びています。その脇は
          竪堀状を呈していますが、堀底道にしては急すぎる感があり、用途は定かでありません。土塁の
          先は本丸直下の急崖となっていて、岩場には鉄鎖が渡され、これを直登するのが正面ルートの
          ようです。下を見るのも恐怖な、落ちたらアウトの崖をなんとか登りましたが、雨の後などに登る
          のはとてもおすすめできません。
           鎖場を登りきると、本丸にダイレクトインできます。本丸前面は樹木が伐採され、むしろ禿山に
          されているため、眺望は絶佳です。東側のピークへ下りると、塚状の削り残し地形があり、その
          南に延びる尾根筋に腰曲輪群や竪堀が認められました。
           本丸の西の下りると、まず鞍部を均した曲輪に出ます。この鞍部からは、先ほどの土塁付け根
          に至る踏み分け道が延びているようで、帰りはこれを辿りました。ただし、道は途中で焼失して
          いるので、行きでこのルートを通る際は迷わないよう注意が必要でしょう。西のピークには緩い
          曲輪が連なり、頂部には三の丸のプレートが掲げられています。
           このように三星城は険しい山容を活かした、地域の最大勢力に相応しい山城といえるでしょう。
          他方で、川を挟んですぐ向かいに別勢力の拠点城郭が構えられているというのは、後藤氏から
          みれば常に心中穏やかならぬところだったのではないでしょうか。そのくらい、三星城と林野城
          の距離感には奇異なものを感じます。

           
 林野城跡から三星城跡を望む。
登城口の明見三星稲荷参道。 
 参道口の説明板。
谷筋の削平地。 
 後藤勝基供養塔の建つ削平地。
同上。屋敷跡か。 
 城山北尾根の切岸跡標柱。
城山北尾根の「西の丸大郭」標柱。 
 西の丸大郭の土塁状地形。
同上。 
 城山北尾根の竪土塁。
本丸跡。 
 本丸からの眺望。
東下から本丸を見上げる。 
 東峰の二の丸跡。
二の丸跡の塚状地形。 
 二の丸の切岸。
二の丸北尾根の竪堀。 
 二の丸北尾根の腰曲輪。
本丸西下鞍部の曲輪。 
 三の丸下の腰曲輪。
三の丸跡。 


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